時計の針
何も無く、退屈な病室の中。
僕はいつも、時計の秒針に耳を傾けていた。
カチ、カチ、という、たったそれだけの小さな音でも、聞いているだけで落ち着けるのは、自分の存在を考えなくて済むからだろうか。
それとも、毎日同じ時間に現れる、あの美しい少女を待っているのだろうか。
「ねえ、京平くん」
「なぁに? 皐月ちゃん」
「私、明日からはもう、ここに来られなくなるの」
「どうして?!」
「あなたを、迎えに行くから。少しの間だけ、待っててくれる?」
「……絶対、迎えに来てくれる?」
「もちろん! 約束よ」
「……わかった。皐月ちゃんが迎えに来てくれるまで、ちゃんと待ってるよ」
これが、少し前の記憶。
僕は、植物状態のまま、夢の中に出てくる少女、皐月ちゃんを、いつもいつも時計の針の音を聴きながら待っているのだ。
「京平くん、迎えに来たよ」
一ヶ月ほど経過して、迎えに来てくれた皐月ちゃんは、何も変わらず、穏やかで元気な、優しい笑顔を向けてくれた。
「約束、守ってくれてありがとう」
「破るわけないでしょ? ほら、一緒に行きましょう」
「どこに?」
「誰にも邪魔されない、幸せな世界に」
そして、僕は自分の体を捨てた。
両親の悲しむ顔は見たくない。そう思っていたから、ぽっくり逝くのも大切だ。
そのまま僕は、時計の針だけを聞き、その音が遠ざかっていくのを感じながら、静かに息を引き取った……。
溢れる気持ち
いつも窓辺に座っている君。
僕は、それを良く見つめていた。
綺麗になびいた黒髪と、透き通るような瞳を、僕の瞳が捉えた瞬間、どうしようもなく愛おしいと感じた。彼女は誰よりも美しく、誰よりも賢い。
人を寄せつけないような鋭い眼光を、誰も見つめようとしないのだ。僕はいつも疑問だった。
「おい! なんでいつも独りなんだ」
「友達ができないから」
「じゃあ、僕が友達になってやる」
それが、初めて君と喋った時だった。
そんな君が、今では僕の帰りを待つ存在になった。
料理を作って、いつも待っている。
僕の奥さんとして、これからも一緒に生きていく。
この溢れんばかりの愛情を、これからは君と、君のお腹に存在する僕たちの我が子に注ぐと誓おう。
《元気かな》
俺はあいつのことがめっちゃ好きや。
付き合ぉてもう5年も経つあいつのことが、愛おしくてしゃーない。けど、俺があいつにどれだけ好きやと言うても、あいつは俺のことを見ようともせず、毎日、机に顔を埋めろや、わんわんと泣く。声に出して泣く。
どれだけ理由を聞いても、答えたってくれへん。
彼氏の俺にも言われへんような、そんな悲しいことがあったのやろ。
あいつを幸せにするんが、俺の生き甲斐や。
せやさかい、俺はあいつにわろてほしい。心からわろて、心から楽しんで、心から幸せになってほしい。
俺があいつにしてやれることは、ただ一つや。
──そばにいてやること。
たったそれだけしかできなくても、それだけできれば十分なんや。
めっちゃ好きな人の、幸せそうな顔は、いつだって元気が出る。
あいつが、──の、幸せそうに笑う写真を抱きしめて泣くんは、なんでやろか……。
俺がどれだけ愛しとると言うても、帰ってくるのは、毎日泣き声だけや。ちっとも笑い声が聞こえへん。
あいつが泣き始めろや、もう1ヶ月も経つ。
仕事から帰ってきた時には、すでに机で泣いとった。
俺は、一体どうすれば、あいつを幸せにできるんやろか。
そないな時、なぜか俺の両親がやってきよった。
両親も、えげつなく痩せ細り、目の下には隈ができとる。
「寝不足で遊びに来んなや」
と、声をかけても、両親はあいつと同じで返事を返してはくれなんだ。
なんで俺は、シカトされとんのだろうか──。
──「あの子が死んで、もう1ヶ月ね……。これから先、私たちは一体、どうしたらいいのかしら……」
……。
そうなんや、俺──死んでたんや……。
せやさかい、あいつも両親も、俺に返事を返してくれへんのや……。
俺、まだやりたいことようさんあるねんけど……。
あいつともっと一緒におりたいし、結婚指輪だって買ぉとった。「一緒に生涯を楽しもう」って、約束したのに……俺、死ぬの早すぎんやろ!!
なんで俺がこんな……。
「皐月ちゃん。これ……あの子が死んだ時、ポケットに入ってた物なんだけど……受け取ってくれるかしら」
母親が、あいつに渡したんは、紛れもなく、俺があいつのために買ぉたはずの結婚指輪やった。
それを見たあいつは、膝から崩れ落ちるように、地べたに座り込んだで。ほんで、その指輪の箱を、大事そうに胸に押し当てながら、俺の名前を……蓮っちゅう名前を必死のパッチで呼んでな、泣き続けとった。
5年前、俺があいつに告白した、あの公園で、俺はプロポーズをするつもりやった。俺の幸せな時間が始まった、思い出の場所で……。
ははっ……ははは……すまんな、皐月……すまん。
もし、俺が生きていたら、いつものように抱きしめて、腕の中に押し込んで、その背中をさすってやるのに……。
俺のおらんこの世界で、皐月はきっと、新しい恋を始めろや、幸せな家庭を築くんや。
俺に良くしてくれたように、夫となるその男は、世界一幸せな旦那さんになるはずや。
そないな相手が見つかったあんたは、──「元気かな」
俺がまだ小さかった時、ある女の子と約束したことがある。その約束は、大きくなった今でも、ほんの僅かな記憶だけ残っていた。
「大きくなったら、私を救って。それで一緒に、──」
最後の言葉だけが思い出せなかった。
俺とずっと一緒にいた彼女の存在が、まるっきり、最初からいなかったかのように忘れ去られていったのだ。
彼女のことは、その約束のことしか覚えていなかった。
あの時、彼女が言ったことを知ったのは、つい最近だ。
仕事の関係で、実家に帰省した時のこと。
母が、俺にこう言ったのだ。
「そういえば、あなたが小さい頃、ずっと一緒にいた女の子のこと、覚えてる? あの子が亡くなった後、あなたが変なことを言っていたのを思い出したの」
その“変なこと”について聞くと、
「あの子が現れたんだって言ってたわ。僕と約束したんだって」
その約束の内容を聞いて、俺は凍りつきそうだった。
「あの日も、今みたいに、夕日が沈む直前。あなたとあの子は、遠い約束をしたの。もう会うことのできないはずの二人が交わしてしまった、禁断の遠い約束を……」
亡くなったその子は、小さい頃から病弱だった。
生まれてから何度も入退院を繰り返しながら、学校に通学していた。
俺は、クラスの輪に馴染めず、ひとりぼっちだったからか、その女の子と気が合ったのだ。
話していくうちに、その子の命がもう長くないことを知った。
だから最後に、俺は願ったのだ。
『彼女が死んだ後、最後に合わせて欲しい。最初で最後の秘密の約束をしたいんだ』と──。
そして、その願いは叶ってしまった。
彼女とその約束をしてから約20年。
あの子は今日、俺のもとにやってくる。俺はその約束を果たさなくてはならない。大好きだったあの子のために。
そして俺たちは
共に命を絶つ……。
「大きくなったら、私を救って。それで一緒に、──来世に行こうね。25歳になる年に、迎えにいくからね」
彼女との遠い約束は、大型トラックの急ブレーキの音と共に消えていった……。
エモーションフラワー
人の体に宿った種は、個性豊かに成長していく。
つい最近までは一粒のタネだった。そこから目が出て歯が生え、枝分かれをして花を咲かせる。
一人一人のその花の名は、エモーションフラワー。
全ての感情、喜怒哀楽によって姿形を変える。
その花の大きさも、色彩も、日によって異なる。
我々は日々、その花が枯れないように、自分自身で育てるのだ。生涯、その花の寿命が尽きるまで。