どこにも書けないこと
〜子供の頃のつまらない失敗談〜
昼休み、同じ班の女子2人が、楽しそうにはしゃいでいた。
聞けば、この日の給食で残ったバナナを、班長に差し入れるつもりだとか。
しかし、ただあげるのは面白くないので、アルミの筆箱を開けたらバナナが入っていた!というサプライズにするつもりだという。
それは楽しそうだと思い、協力することにした。
しかし、バナナは筆箱からはみ出した。
さらに机の中の道具が多すぎて、バナナを挟んだ筆箱の入るスペースがない。
無理に入れた結果、バナナが少し潰れてしまった。
3人でふざけて仕掛けている時は楽しかった。しかし、その熱が冷めると、私の胸を罪悪感がよぎった。
私は少々考えて、班長の筆箱からバナナを取り出すと、そのままゴミ箱へポイッと放り込んだ。
バナナは空中で弧を描き、ボスッと音を立て、綺麗にゴミ箱へ収まった。
『ナイスシュート!』私は心の中で叫んだ。
潰れたバナナでは嫌がらせになってしまう。
それは申し訳ないと思った私は、バナナを捨て、最初から無かったことにする方がよいと判断した。
班長が帰って来る前に片付けられて良かったと。私は良い事をしたつもりでいた。
しかし、私のその判断は悲劇を生む。
ちょうどその時、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り、生徒たちはばらばらと席へ戻った。
5時間目は数学だった。
授業中、目があった隣の席の男子は、神妙な面持ちで「どうして…」と小声で言った。
言葉は途中で途切れ、どうしたのかなと不審に思いながらも、授業中、教卓の真ん前という都合もあり、聞き直すことはできなかった。
私は班長の件では良い事をしたつもりだったので、男子の怪訝な表情や言いかけた言葉が、私に関係するなどとは露ほども思っておらず、まして、斜め後ろの班長の様子など気にも止めていなかった。
その日、6時間目はなかった。
5時間目が終わると、掃除に備えていつものように着替えを始めた。
この後何が起こるかなど、全く予想だにせずに。
セーラー服を脱いだ時、突然、私の足が空中に浮いた。
何事かと顔を上げると、こめかみに血管が浮き出るくらい真っ赤になった班長が、怒りに震えながら至近距離で私を睨みつけていた。
小柄な私はYシャツの襟首を捕まれ、片手で班長に吊し上げられた形になっていた。
私は混乱した。
なぜこうなったのか全く理解できなかった。
私は内心狼狽えながらも、そんな素振りを見せないように、気を強く持ってしっかり班長と目を合わせた。
「お前がやったのか」
私は、すぐさま「ごめん」と謝った。
バナナを筆箱から出して捨てる瞬間を班長が見ていた事に、この時はじめて気が付いた。
その後は何を話したのか憶えていない。
弁明もできなかったし、許してももらえなかったのは憶えている。
班長の顔を見た瞬間、心の余裕は消し飛んだ。
誤解だよ。悪気はなかった。恥ずかしい。そこまで怒る理由が分からない。許してほしい。ちゃんと教えて、説明させて、謝罪させて。
罪悪感、不体裁、屈辱感。
強い力に恐怖した自分が惨めだった。
私の自尊心は酷く傷付いた。
しかも、この事態は私の行動が招いた結果だという事実が、余計に気持ちを重くした。
一緒に仕掛けた班の女子たちは、あーあという感じで「多少潰れてもバナナをあのままにしておけば、こんな大事(おおごと)にならなかったのに」と言った。
そうだったのか。
私はどうもその辺の感覚が他の人とズレているようだ。
良かれと思ったことが、問題を大きくしてしまう。
その後、この事件について表立って触れる人はなく、3月、何事もなかったかのように私達は卒業した。
班長があんなに怒った理由を、私はとうとう聞けず仕舞いとなった。
この出来事は、私が正しくない事の、品行方正ではない事の、体裁ばかり気にすることの、自己防衛のずるい言い訳をする事の、確たる証拠として私の中に記憶された。
それは、現在に至るまで、私の中に影を落としている。
記憶の彼方から、時々ひょいと現れて、まだ終わっていないと告げていく。
大人になった私は思う。
あの頃の自分の性格や成熟度から考えて、あの頃の自分に、あの出来事を回避する能力は無かったと思う。
というか、今でも同じ失敗をするかもしれない。
だから、あれは後日、勇気を持って班長に体当たりで謝りに行くしかなかったと思う。
でも他にやり方はなかっただろうか。
もちろん、最初からイタズラに加担しなければ良かったのだが、そもそも、相手が私でなければ、こんなにこじれなかった気もするのだ。
私はそれほど人に嫌われていた。
子供の頃は、自分を真面目な良い子だと思っていた。
逆にそうでなければ、自分には生きる価値がないと信じていた。
「正しくなければ生きる価値なし」
だから簡単に失敗を認められなかった。
良い子であることに固執した。
大人の言う事は絶対だった。
「自分に厳しく、他人に優しく」を本気で目指した。
しかし、人間の意識は、そんなに器用にできていない。
自分に厳しい者は、他人にも厳しい。
自分に「正しくなければ生きる価値なし」を課す人は、無意識に他人にも課している。
だから、「自分に厳しく、他人に優しく」を実践しようとすれば矛盾が生じ、その矛盾を誤魔化すために、見て見ぬふりをして、見逃した自分を優しいと思い込む。
マッチポンプもいいところである。
「生きる価値なし」
他人の喉元にその刃を突きつけておきながら、「私は優しいから今日は許してやる」というのが、私の「自分に厳しく、他人に優しく」の正体である。
そういうことは、言葉に出さなくても周囲に伝わるものである。
そんな私に人望などあるわけがない。
一緒に居て心地良いわけがない。
誰も幸せにしないこの信じ込みを、もうさすがに手放さなければならない。
あの出来事から本当に学ぶべきは、自分を失敗するものとして受け入れる事だったように思う。
だから、白状します。認めます。
私は間違えてばかりいます。
表面だけ取り取り繕う、どうしょうもない人間です。
大した才能もなく、煩悩も一式人並みに持っています。
でも大切に思ってくれる家族がいて、私も大切に思っています。
今この場を借りて、内側を曝し、弱い自分を受け入れる機会とさせて頂きます。
時計の針
時計が好きだ。
アナログ時計のカチッカチッというリズミカルな音が好きだ。
秒針の立てる音を聞くとはなしに聞ききながら、物思いに耽るのも良い。
気早な性分で、気がつくとオーバーペースになってしまう自分にとって、あの音とリズムは、ゆったりと落ち着きを取り戻すのにも良いものだ。
会話のテンポ、歩調、間。
整ったリズムは心地よい。
それは、朝、駅へ向かう途中。
同じ時間、同じ場所で同じ人たちとすれ違う。
顔は知っているが名前は知らず、毎朝挨拶を交わすだけの関係が出来上がる。
その関係にもちょっとしたドラマがあり、それが思いの外心地よい。
それは仕事。
予定通り片付くと、だんだん調子も上がっていく。
まるでパズルのピースのように、ピタッとはまる面白さ。
しかし、それは二面性を持つ。
一端「時に支配されている」と感じると、心地よかったものが、途端に窮屈な枷(かせ)と化す。
そんな時はペースを変える。
すると、これまで見えなかった世界に出会えたりする。
もしかしてそれが、時計の針が一回りして、時が繰り上がる事の意味だったりしてね。
溢れる気持ち
つまらないことで笑い転げる君が好き。
思い出し笑いが止まらず、息が止まりそうになる君が好き。
面白い動画があると、私の肩を叩いて一緒にみようとする君が好き。
「学校行きたくねー」
「でも行くんですけどね」
と、一人で自分を宥(なだ)めすかして頑張る君が好き。
美味しいものをはんぶんこする時、大きい方を友達にあげる君が好き。
君は君だから、君が好き。
兎にも角にも君が好き。
君の隣は春みたい。
kiss
キスする時、彼は甘えて鼻をこすり付けてくる。
可愛いとは思うのだが、残念ながら私の好みではない。
大人っぽい雰囲気を楽しみたい私は、ちょっと悪戯な気持ちで待てをする。
年齢も経験値も彼の方が上なのに、私の方が年上みたいになってしまう。
どうせ最後は「しょうがないな」と受け入れるんだから、無駄な抵抗だけどね。
1000年先も
「時間は繰り返す」という考えがある。
そうかも知れないと思う。
時計の針は回り、地球も回る。
公然の事実だけど、これにはまだ深い意味があって、実は宇宙の真髄かもしれないと思っている。
そして、この世はフラクタル構造になっている。
宇宙で起こることは、連動して個人の中にも起こる。
個人は宇宙を内包する。
そして、人の営みも繰り返される。
世界中どこでも、どんな人種であろうとも、未来永劫宇宙(この世)が続く限り、繰り返される。
そう考えると、日常は、単なるルーティンではない。
むしろ、進化の種が休眠する畑のように思えてしまう。