# 何気ないふり
彼女の柔らかな黒髪を見つめる。細く美しい指が髪を耳にかける仕草すら、冗談みたいに綺麗だ。
彼女がふとこちらを見た。僕は何気なく空を仰ぐふりをする。彼女が笑う気配がして視線を元に戻せば、悪戯っぽく微笑んでいた。
頬杖をついてこちらを見る彼女の、細められた黒水晶のような瞳が忘れられない。
# My Heart
心臓が割れる。
血管を裂き、皮膚を破り、胸から覗いた欠片はバラバラと地面に落ちる。ステンドガラスが割れたみたいに、色鮮やかな欠片が散らばる。
私はそれに手を伸ばす。指を切って血が滲んでも、構わず強く握りしめる。
ああ、わたしのかけら。
# 好きじゃないのに
僕は猫派、彼女は犬派。
僕は甘党、彼女は辛党。
僕はインドア、彼女はアウトドア。
僕はたけのこ、彼女はきのこ。
僕は内向的、彼女は外交的。
全く違う。何もかもが正反対。
対義語辞典を開いて、彼女と額を突き合わせて笑い合った。人間を二つに分類するならば、僕と彼女は一緒になれない。
彼女が好きなものは僕の嫌いなもの。
僕が好きなものは彼女の嫌いなもの。
激辛ラーメンを勧められる。好きじゃない。好きじゃないのに、一口もらう。案の定辛くて顔を顰める。彼女は悪戯っぽく笑う。
特大パフェを勧める。彼女は恐る恐るクリームを口に含んで、やっぱりね、とでも言いたげな顔で舌を出す。僕はごめんと謝りながら笑う。
でもいいのだ。
僕は激辛ラーメンの代わりに餃子を食べれるし、彼女は特大パフェの代わりにコーヒーを飲める。たけのこときのこ、両方買えばいい。猫と犬、両方飼えばいい。外でキャンプをした後、家でゆっくり映画を観ればいい。
なんの問題もない。
# ところにより雨
『今日は全国的に晴れ模様ですが、ところによりギフトが降る予報です。傘のご準備をお忘れなく。また、防護スプレーの有効期間をしっかりとお守りください。それでは、よい一日を』
画面の中のお天気キャスターが晴れやかな笑顔で天気予報を読み上げる。いつも通りの朝だ。
「うわ、またギフトかよ。最近よく降るな」
寮の同室の友人がそうぼやく。
「そろそろ梅雨だからね」
「それにしたって多すぎだろ。はーあ、また今日の体育バドミントンだぜ。そろそろサッカーやらせろよ」
派手に顔を歪めて、彼は悪態をついた。
ギフト。
それはこの世界に降る雨のことだ。
しかし、ただの雨ではない。なにせギフトには、人間にだけ悪影響をもたらす化学物質が含まれている。植物や人間以外の動物──例えば犬や猫──には何の影響もないが、人間が一度触れれば皮膚は溶け、吸い込めば全身に回って様々な体調不良を引き起こす。長時間ギフトに晒されれば命の危険だってある。
有体に言えば、毒だ。ギフトとはドイツ語で“毒物”を意味する言葉。本来は天からの恵みであったという過去の雨が有害なものに変わったことを皮肉るように、英語で“贈り物”を意味するそれが使われた。
ちなみに、ギフトに含まれる毒性の物質は自然界には存在しないと言われている。ではなぜ雨に含まれているのか。研究者はある国が生み出した生物兵器との説を出した。その最有力候補がドイツだ。だからドイツ語が使われたのだと、人々の間ではまことしやかに囁かれていた。
ギフトが降り始めてから、もう何年になるだろう。短くはないことだけはわかる。傘や靴、靴下の類はその全てが国の認証を取得した特別性の防毒加工の施されたそれだし、その更に上から防護スプレーを吹きかけて使用しなさいというお達しももう聞き飽きている。繰り返し降るギフトのせいで外に出れなくなる生活にも、みんな随分と慣れた。
あまりにも日常的に、普通の雨のように降るものだからその危険性を忘れてしまいがちになるが、ギフトは紛れもなく毒である。実際、ギフトによる健康被害の報告や死者数は年々増加していると言う。動物や植物に影響がないとは言え、外で作業できない日が続くと作物も育てられない。食料不足も騒がれ始めている昨今、ギフトは深刻な環境問題と言えるのだった。
僕は友人と朝飯を食べながら、今日一日の流れを予想する。傘を持って学校に行って、授業をして、三限の体育は体育館でバドミントンをして、昼食を食べてまた授業、そして下校する。なんてことない一日、だけれど。
ギフトが降るというだけで、僕は頬が緩みそうになるのを必死で抑えなければならなくなる。
別に、外で運動したくないわけじゃない。僕だってサッカーは好きだし、晴れた日のグラウンドで砂埃が舞うのを見るのは清々しい。けれど、それ以上に僕は雨が好きだった。
空から何かが降ってくるなんて、こんなにも神秘的なことはない。雨が降るといつもそんな風に思う。
ギフトは普通の雨とは違い、青のような緑のような不思議な色をしている。透き通った、ビー玉みたいな色。緑青色と言うらしい。それが梅雨の時期、紫陽花の葉っぱに弾かれて跳ねる様子を見るのが、小さい頃から大好きだった。ギフトの降る時に外に出るのは基本的に良くないと言われているから、見れる機会は少ないけれど。
世間は、ギフトを疎んでいる。ドイツが世界から孤立して今にも戦争が起きそうなくらいには、ギフトの存在は世界にとって悪いものだった。
だから僕は、そんなギフトが好きだなんて、口が裂けても言えないのだった。
# 特別な存在
「あーあ。私も彼氏欲しーい」
大学の講義室は、講義前のざわざわとした空気に包まれていた。その中をよく通る姦しい声で、一人の女子学生がそう言った。友達の惚気を羨ましげに聞いた末の言葉だった。それをきっかけに、周囲の彼氏のいない女子が一斉に同意する。
「私もー!」
「やっぱ特別な人欲しいよね〜」
「王子もやっぱり、彼氏欲しいとか思うの?」
十数人の女子に囲まれた、王子と呼ばれた女子学生は苦笑していた顔を改める。
「特別っていう言葉、あんまり好きじゃないな」
切れ長の瞳、若さを存分に発揮した滑らかな肌、淡い色の口紅が引かれた唇は妖艶に輝いている。ボーイッシュなショートカットの髪も相まって、中性的な美貌を持った美男子、と思われてもおかしくない。王子という呼び名が相応しいほど、美しく凛とした女性だった。
「どういうこと?」
訝しげに問われると、王子は柔らかく微笑んだ。見るものを惹きつけてやまない、彼女の得意技だ。
「だってさ、ある人が特別って言うんなら、それ以外の人は特別じゃないって言ってるみたいじゃない。私はみんなが特別だよ。みんな大好き。そこに優劣はない」
なんとくさいセリフか。吹き出しそうになった。
冷静に見ればこれほど胡散臭い言葉はない。けれど、王子を取り巻く女子たちにはそうとは思えない。何故なら、王子は圧倒的なカリスマ性を持っているからだ。
王子が言う言葉は全て、絶大な信憑性を帯びる。それがどれだけ荒唐無稽な話だとしても、王子の口から発されたというだけで誰もが耳を傾ける。入学式の際、代表挨拶で心を揺さぶる名演説をした噂の王子様。思えば彼女が王子などと呼ばれるようになったのは、あの入学式からだった気がする。それだけ、彼女の言葉には、笑顔には力がある。
今だって、彼氏が欲しいと大声で話していた子も特別な存在に憧れていた子も、みんな熱に浮かされたような目で王子をぼーっと見つめている。まるで麻薬のようだ。みんな前後不覚になって盲信するように王子を崇める。誰もが羨む美貌を持っていながら彼女が誰からも恨まれないのは、ひとえにこのカリスマのおかげだろう。彼女の前では、何者も敵わない。
私? 私は王子の催眠にはかからない。
王子の艶やかな笑顔を見つめ、私は薄ら笑う。
「ねーえー、なんで一緒に学校行ってくれないのー?」
私の腰に抱きつき、ぶうたれた声を上げる彼女は王子だ。正確には、王子と呼ばれ少しばかり人気があるだけのただの女子大生、瑞稀だ。
「離して瑞稀」
「ねえなんで?」
瑞稀は、むー、と頬を膨らませる。せっかくの王子面が台無しだ。欠点のない完璧な王子だと崇め奉られているというのに、オフの彼女は随分と幼い。今も大学から帰るなりソファに飛び込み、後から座った私の背中とソファの背もたれの間にずもずもと潜っている。いつも微笑みを絶やさず柔らかな物腰を維持して、紳士的な振る舞いを呼吸と同じ自然さで行う王子様。この家の中でだけ、私の前でだけ、彼女はただの瑞稀に戻る。
「一緒に行こうよー」
「だめ」
「いいじゃん!」
「だめよ」
「なんで!」
まるで駄々っ子だ。私の右脇腹に顎を乗せる彼女の頭を撫でてあやした。不服そうな顔は消えないが、それでも嬉しいという感情が透けて見える。可愛い子だ。
「貴方、特別な存在は嫌なんでしょう」
「……いやあれは」
「わかってる。貴方は生粋の女たらし。今更それを矯正しろとは言わないわ」
「……ごめん」
「別に怒ってないわよ? ただ、私といるのを彼女たちに見られたら問題でしょって、ただそれだけ」
貴方が私との関係を隠せるとも思えないし。そう付け加えれば、瑞稀は首をすくめた。自分でも不器用な自覚はあるらしい。なまじ優しいものだから、人に上手い嘘をつくのが苦手なのだ。
「だからだめ」
瑞稀は泣きそうな顔になる。子犬が耳を垂らして悲しんでいる絵面と重なった。ああ、本当に可愛らしい。つい辛辣に扱ってしまいそうになる。あまりに可愛いから。
「……じゃあ、明日は美味しいスイーツでも食べに行きましょうか?」
「ほんと⁉︎」
「ええ」
「やった! 絶対だよ?」
「ええ。きっと行きましょう」
そう言って私はほくそ笑む。スマートフォンの画面には既にスイーツの名店が表示されている。その住所は、私たちの通う大学のすぐそばだった。
彼女は確かに可愛い。本当に、特別な存在だ。
けれどその一方で、彼女を見ているとどうしようもない嗜虐心が擽られるのも事実だった。キュートアグレッションとでも言うのだろうか? 子犬のような彼女の顔が苦く歪む顔を見たくて、私はその店に予約の注文を入れた。