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# 特別な存在

「あーあ。私も彼氏欲しーい」
 大学の講義室は、講義前のざわざわとした空気に包まれていた。その中をよく通る姦しい声で、一人の女子学生がそう言った。友達の惚気を羨ましげに聞いた末の言葉だった。それをきっかけに、周囲の彼氏のいない女子が一斉に同意する。
「私もー!」
「やっぱ特別な人欲しいよね〜」
「王子もやっぱり、彼氏欲しいとか思うの?」
 十数人の女子に囲まれた、王子と呼ばれた女子学生は苦笑していた顔を改める。
「特別っていう言葉、あんまり好きじゃないな」
 切れ長の瞳、若さを存分に発揮した滑らかな肌、淡い色の口紅が引かれた唇は妖艶に輝いている。ボーイッシュなショートカットの髪も相まって、中性的な美貌を持った美男子、と思われてもおかしくない。王子という呼び名が相応しいほど、美しく凛とした女性だった。
「どういうこと?」
 訝しげに問われると、王子は柔らかく微笑んだ。見るものを惹きつけてやまない、彼女の得意技だ。
「だってさ、ある人が特別って言うんなら、それ以外の人は特別じゃないって言ってるみたいじゃない。私はみんなが特別だよ。みんな大好き。そこに優劣はない」
 なんとくさいセリフか。吹き出しそうになった。
 冷静に見ればこれほど胡散臭い言葉はない。けれど、王子を取り巻く女子たちにはそうとは思えない。何故なら、王子は圧倒的なカリスマ性を持っているからだ。
 王子が言う言葉は全て、絶大な信憑性を帯びる。それがどれだけ荒唐無稽な話だとしても、王子の口から発されたというだけで誰もが耳を傾ける。入学式の際、代表挨拶で心を揺さぶる名演説をした噂の王子様。思えば彼女が王子などと呼ばれるようになったのは、あの入学式からだった気がする。それだけ、彼女の言葉には、笑顔には力がある。
 今だって、彼氏が欲しいと大声で話していた子も特別な存在に憧れていた子も、みんな熱に浮かされたような目で王子をぼーっと見つめている。まるで麻薬のようだ。みんな前後不覚になって盲信するように王子を崇める。誰もが羨む美貌を持っていながら彼女が誰からも恨まれないのは、ひとえにこのカリスマのおかげだろう。彼女の前では、何者も敵わない。
 私? 私は王子の催眠にはかからない。
 王子の艶やかな笑顔を見つめ、私は薄ら笑う。

「ねーえー、なんで一緒に学校行ってくれないのー?」
 私の腰に抱きつき、ぶうたれた声を上げる彼女は王子だ。正確には、王子と呼ばれ少しばかり人気があるだけのただの女子大生、瑞稀だ。
「離して瑞稀」
「ねえなんで?」
 瑞稀は、むー、と頬を膨らませる。せっかくの王子面が台無しだ。欠点のない完璧な王子だと崇め奉られているというのに、オフの彼女は随分と幼い。今も大学から帰るなりソファに飛び込み、後から座った私の背中とソファの背もたれの間にずもずもと潜っている。いつも微笑みを絶やさず柔らかな物腰を維持して、紳士的な振る舞いを呼吸と同じ自然さで行う王子様。この家の中でだけ、私の前でだけ、彼女はただの瑞稀に戻る。
「一緒に行こうよー」
「だめ」
「いいじゃん!」
「だめよ」
「なんで!」
 まるで駄々っ子だ。私の右脇腹に顎を乗せる彼女の頭を撫でてあやした。不服そうな顔は消えないが、それでも嬉しいという感情が透けて見える。可愛い子だ。
「貴方、特別な存在は嫌なんでしょう」
「……いやあれは」
「わかってる。貴方は生粋の女たらし。今更それを矯正しろとは言わないわ」
「……ごめん」
「別に怒ってないわよ? ただ、私といるのを彼女たちに見られたら問題でしょって、ただそれだけ」
 貴方が私との関係を隠せるとも思えないし。そう付け加えれば、瑞稀は首をすくめた。自分でも不器用な自覚はあるらしい。なまじ優しいものだから、人に上手い嘘をつくのが苦手なのだ。
「だからだめ」
 瑞稀は泣きそうな顔になる。子犬が耳を垂らして悲しんでいる絵面と重なった。ああ、本当に可愛らしい。つい辛辣に扱ってしまいそうになる。あまりに可愛いから。
「……じゃあ、明日は美味しいスイーツでも食べに行きましょうか?」
「ほんと⁉︎」
「ええ」
「やった! 絶対だよ?」
「ええ。きっと行きましょう」
 そう言って私はほくそ笑む。スマートフォンの画面には既にスイーツの名店が表示されている。その住所は、私たちの通う大学のすぐそばだった。
 彼女は確かに可愛い。本当に、特別な存在だ。
 けれどその一方で、彼女を見ているとどうしようもない嗜虐心が擽られるのも事実だった。キュートアグレッションとでも言うのだろうか? 子犬のような彼女の顔が苦く歪む顔を見たくて、私はその店に予約の注文を入れた。

3/24/2023, 9:09:11 AM