「街の明かり」が今日の作文テーマだ。大学生の頃に、部活のメンバーでちょっとした山の上から街の夜景を見下ろしたことがある。街の明かりは宝石のようにキラキラと輝き、とても綺麗だった。その明かりのひとつひとつは、どこかの家庭の窓の光だったり、オフィスビルの蛍光灯の光だったり、店舗の看板を照らす光だったりしたはずだ。「この夜景の光が、人間が作ったものだと考えると、汚く思えるか、むしろさらに美しく思えるか、で性格が分かれそうですね」というようなことを、そのとき自分は言った気がする。それに対して部活の仲間達がなんと答えたかは覚えていない。たぶん、軽く流されたんだと思う。その頃も今も、自分は「汚く思える側」だけど、「美しく思える側」になりたいなぁと思っている。人間の営みを愛せるような人間に、いつか、なりたい。
入道雲のもこもことした立体的な形を見ると、手が届くなら触ってみたい気持ちになる。もちろん、実際に触ったら霧のように手がすり抜けるだけだろう。いや、上空の雲は微小な氷の粒の集まりだと聞いたことがあるから、手がすり抜ける瞬間に冷たいのだろうか。ずうっと高い空からスカイダイビングで落下していって、入道雲に上から突っ込んだらどんな気分だろう。雲に突っ込む瞬間に、ボフッという抵抗があったりしないだろうか。できることなら、ちょっとやってみたい。
あまりにも夏が大好きな人が、「夏至が過ぎると、もうこれから日の長さは短くなっていくのか、と思ってとても悲しくなる」と言ったという。その話を聞いた自分は、「なにいってんだ、夏至って6月じゃないか、クソ暑くなるのはこれからだぞ」と思ったが、なぜかその話は頭にこびりついて、毎年夏至の頃に思い出す。本当に夏が好きなんだな、と思う。その人のことが、なんとなく、少し羨ましくなる。
ここではないどこかに行きたい、という気持ちは常にある。どこか、誰も私を知らない土地をひとりで旅してみたい。できれば徒歩で。電車や飛行機に乗るのはあまり好きじゃない。でも船に乗るのは仕方ない、海の上は歩けないから。旅の目的はなんだろう。ひとりになりたい、だけかもしれない。
子供の頃は「将来」というものがあった。それが、子供の頃と今のいちばんの違いのような気がする。「将来」は漠然としてぜんぜん見通せないのに、「将来のために」という理由でいろんな努力を強いられた。特に受験勉強は、「将来のために」という名目のもとに無限の努力を求めてきた。自分が大人になった未来なんてちっとも想像できないのに、「いま頑張らないと、将来自分が困るんだぞ」なんて脅されると不安でしょうがないし、「頑張れば将来のためになるんだ」と信じれば前向きに努力できた。30代後半になった今は、将来のために頑張ろうとは思えない。将来がだいだい見通せてしまったからだ。それが、大人になったということだろうか。