やわらかな光
中学生の時に行った宿泊行事を思い出す。
早朝、森の中でクラスごとに集まって礼拝をした。朝の清々しさと森の匂い、木漏れ日が気持ちよく、宿泊行事特有の興奮もありよく覚えている。
教室のようには声が響かず、讃美歌はいつものようにまとまっては聞こえなかった。それがなんだか、外にいるという感じがして良かった。
あさかぜ しずかにふきて、の歌詞が本当にぴったりな朝だった。
やわらかな光と言うには真っ直ぐで、爽やかできらきらしすぎていたけど、この光景を思い出す私の気持ちも含めて、やわらかな光と言うに充分、あたたかい。
子供のように
子供のように、の続きは何だろう。すぐ思いつくものとしては、子供のように駆けるとか、子供のようにはしゃぐとかだろうか。
こう挙げてみると、感情を露わにして思いのまま行動すること、の意味合いで、子供のようにという言葉を使っている。それがまあ、一般的な用法な気がする。
子供ってなんなんだろうか、子供の定義とは
法律で言うなら18歳以上だけど、日付を1日超えただけで大人になるというのもなんだか変な話だと思う。かといって、それ以外の子供と大人を明確に線引きする基準もない。
子供の意味を調べても、年のいかない幼い者、行動などが幼く思慮が足りない者などと書かれている。じゃあ幼いとは一体?という疑問に行き着いてしまって、結局のところ堂々巡り。
これは答えのない問いなのか。
社会が変わるにつれ、「社会的に」大人になるということも変わってきただろう。元服が今の社会では成人したことの基準にならないように、その時代に一般的である価値観、平均寿命や、その上に成り立つ社会が(もしくは社会がそれらを形作るのか、今はひとまず考えないでおくが、いずれにせよ)大人になること、子供であるということに密接に関わっていることには違いあるまい。
しかしながら、今を生きている私と、遠く昔の文献の中で生活している人々は、それほどまでに大きく異なるものだろうか。たしかに、二足歩行がどうとか、火を利用し始めてとか、そんな時代まで遡ってしまえば、もはや生物種として私たちと異なりすぎて比べようもないだろう。だが、江戸時代だって300年前だ。1000年前だって平安時代。
古文、つまるところ平安時代の文章を読んでいると、たしかになあとか、いやそれは違くないかとか、共感したりしなかったり、まるで文章と会話しているみたいに感情が動く。まさしくそれは、私たちが昔の人々に通ずるところなんじゃないだろうか。
古文常識は今の常識と違いすぎて、驚いたり なんなら引いたりすることも多いけど、それでも、古文を読んでいると、昔の人々がなんとなく生身の人間として、事実生きていた人として感じられるのだ。
だから、同じ感情をもつ人間として、根底にあるんじゃないだろうか
(追記: 翌朝読み直したら、目的語がなく文が意味をなしてない…笑 1番最後に直したから、ベットの中でうとうとしながら書いた部分。文章の繋がりがおかしすぎて消そうか迷うが、せっかくここまで書いたので、余力がある時にでも書き直すことにする。半年後とかになりそう…)
でもここに明確な理論なんかは存在しない。なんとなく論理があるように書いてきたけれど、飛躍が甚だしくて話にならない。詭弁だとすら思う。
だけど、少なくとも私の周りの大人は、大人であることを証明するような普遍の思想、その振る舞いが存在するかのように言うのだ。子供であること、が明確な概念として私に表れているとでも言うような口ぶりで。
お盆についての随筆を思い出す。いつかの模試の国語で読んだものだ。筆者が幼いころ、大人たちがお盆にだけ思い出したようにお墓参りに行くのが薄情に思えてならなかったが、自身も大人になるにつれ、それでもいいかと穏やかな気持ちで思えるようになったという内容だった。
正直、分かってしまった。お盆にだけお墓参りに行くことが、自分のための行動にしか思えず死者に対して失礼だという気持ちも、たといお盆だけでも、年に一回、もういない人を思い出すということをなんとはなしに温かく、穏やかに受け入れられる気持ちも、どちらも理解できてしまった。いつか自分も、筆者のようにすっかりと、穏やかに受け入れるのではないかといった予感もあった。
それが本当にショックだった。
筆者と同じように、私も小さい頃はお盆だけのお墓参りをただただ失礼だと思っていた。もう同じようには思わないし思えない。私は私の確実な思想の変化をまざまざと感じてしまった。今の私は、私が心底嫌っている大人の思想とやら、大人のいう「大人」がなんとなく、なんとなくどこか存在するように思えてしまうのだ。それが苦しくてならない。
私の本当に大切にしている考え方が、「若いからそう思うんだ、俺にもそう思ってた時期がある」なんて陳腐な言い草でやんわりと否定されてきた私の思想の行き着く先が、その陳腐な言葉なんじゃないかと、言葉にならない。
「子供のように」の意味するところ、その先は、大人の振る舞いのルール、暗黙の了解、常識であり、大人が普段大人であることの義務だと思う。と同時に、それは相当斜に構えた見方だとも思う。思うけれど、どうにもこの考えがこびりついて離れない。
子供のように、という言葉を見た瞬間、咄嗟に反抗心が頭をもたげるくらいには、私は、どうやら「大人」の体現であるらしい人間のいう「子供らしさ」「大人らしさ」を気持ち悪く感じる。
それなのに、私の思考や行動は気付かぬうちにどんどん変化していくらしい。子供のような、から大人へと。
私は今の自分の考え方を気に入っている。自分の思想を、子供ゆえのものとは思わない。大人ゆえのものとも思わないが。
これからいろんな経験を重ねるにつれ、考え方は変わっていくだろうと思う。それを悪いこととは思わない。変化をただ厭っていればやがて元々持っていた考え方すら捻じ曲がってしまうと思うし、私はいま、これからのために頑張っている。これからのことが楽しみで頑張ることができるのだから、時が流れ自分が変化するのが怖いというのもちょっとおかしな話だ。
ただ、それはそれとして、苦いものはある。
眠たくなってきた。
本当は前述の話と併せてもう少し書きたかったんだけど、寝ることにする。うとうとしてて上手く書けない。多分明日も書く気力はないので、この文は未完で終わりそう…ねむい、、
なんだかんだ私は、子供とは大人とは何か、考えながら生きていくのかもしれない。というよりそれがいい。下手に子供とはなんなのか、理解したつもりになるよりは、いつまでもそれを曖昧に、定義づけず考え続けることができれば、多少は今の私が浮かばれるかもしれない。
路線の
人生の
滴定の
物語の
ベクトルの
DNA複製の
あんまり思いつかない
終点があれば必ず始点もあることを考えると、それが辿ってきた軌跡のどうやっても見ることのできない残り香や、ふっと生まれる時に起こった何かを考え、不思議な気持ちになる