腕を焼く煙草の熱が
寂しさの象徴たる痛みだと思えた私は終わりである。
大空はいつまで街を覆っている
まるで母親の胸のようで
あんまり無気力になってしまう
あんまり無気力になってしまう
大空はいつまで街を覆っている
まるで海原の腹のようで
あんまり不安になってしまうのだ
あんまり不安になってしまうのだ…
大空はいつまで街を覆っている
胡麻も蜻蛉もひとであろうとも
つまりは無に帰す塵に等しいのだ
《大空》
人工物を見て美しいだとか、
そんな甘えたなこと言わないで
母親は寂しさだ
教科書にすら書いてない歯痒さと、
この身を死に至らしめるほどの焦燥を以って
瞋恚の理想郷は完成す
この世に放られた意思の全ては寂しさだ、寂しさだ
それはけたたましいサイレンが数式の邪魔をするが如く、
簡単な嘘に騙されて洒脱されてしまうが、
温いままの羊水に
いつまでも浸かり続けるわけにもいかず………
母親は寂しさだ
それは決して手を繋いではくれないが、
いつだって私たちを抱き締めている
そして確かな一夜の物語として、
寂しさが私を産みすらしたのだ!
《寂しさ》
取るに足らない話をした。
彼女が赤く染まった鼻先に、雪をのせていたあの晩のことだ。
「風邪をひくから、傘をおさし。」
隣を歩いていた僕は、彼女の身を案じてそう言った。
藍の空と一面の銀世界に、彼女の黒髪と、存在を誇張する耳鼻の朱の色が溶けているのが、僕はこの痛いくらいの寒さの象徴に思えてしまって、ひどく目に毒だった。
「どうして、風邪をひくと思ったの?」
彼女は僕の目をみて訊いた。
そんな言葉が返ってくるとは露とも思っていなかった僕は、少々面食らってしまう。
おかしな質問だ。
風邪をひく。それは単純によくないことだ。
僕たちは、物心つく前からそれを知っている。
何故雪の日に傘をささないと風邪をひくのか。
何故、何故。
ふと進行方向を仰いだ。信号に捕まっていた。周りを確認せずともわかるくらい、車通りは無かった。
「…女性は、体を冷やしてはならないというから。」
少し、見当外れかもしれない答えを述べた。
何も疚しいことなんてないのに、おかしな話なんて持ち出していないのに、何故だか彼女の瞳が僕を責め立てるように捉えているから、僕の頭は働かなかった。目は泳いで、手には寒いのに汗をかいた。
__女性は体を冷やしてはならない。
理由は良くわからないが、口を酸っぱくして親類が言うので、僕は数学の公式を覚えるように、額面と使い方だけその言葉を脳内に繋ぎ、飼い殺していたのだ。
はじめて役に立った知識だ、と、女絡みのない地味な暮らしをしていた自分を嘲った。
暫く僕をその瞳孔の中に閉じ込めていた彼女は、信号が青に変わる頃、満足したのかその目を三日月に細め、言った。
「私、雪では傘をささない主義なの。」
彼女は左足で白線を踏んだ。遅れて僕は右足を出した。ささやかに地面に重なる粉雪は、僕たちの足跡をはっきりとさせない。
「それはどうしてだい?」
今度は僕が訊いた。"寒さで余り口を開けたくない"と考えた。
「人間はずるいの。」
「雪の日ぐらいは、風邪をひいてあげなきゃ。」
白い吐息が見えた。僕からの角度では、先を行く彼女の唇までは見えない。
ただ、悴んでいるのだろうなと思った。
物心つく前から、なんとなく知っていた。想像つくようになっていた。
言葉を知る前に、事象を知る前に、たぶん植え付けられていた。
「冬が可哀想じゃない。」
そう言った彼女の顔はわからなかった。わからないまま、あの晩は終わった。
脳の容量を食うには勿体ない、ただ明日には忘れるような、すこし変わっただけの、それ以外は何も取るに足らない話だった。
だけど僕はそれを、確かに今日まで忘れられないままでいる。