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取るに足らない話をした。

彼女が赤く染まった鼻先に、雪をのせていたあの晩のことだ。

「風邪をひくから、傘をおさし。」

隣を歩いていた僕は、彼女の身を案じてそう言った。

藍の空と一面の銀世界に、彼女の黒髪と、存在を誇張する耳鼻の朱の色が溶けているのが、僕はこの痛いくらいの寒さの象徴に思えてしまって、ひどく目に毒だった。

「どうして、風邪をひくと思ったの?」

彼女は僕の目をみて訊いた。

そんな言葉が返ってくるとは露とも思っていなかった僕は、少々面食らってしまう。

おかしな質問だ。

風邪をひく。それは単純によくないことだ。
僕たちは、物心つく前からそれを知っている。

何故雪の日に傘をささないと風邪をひくのか。

何故、何故。

ふと進行方向を仰いだ。信号に捕まっていた。周りを確認せずともわかるくらい、車通りは無かった。

「…女性は、体を冷やしてはならないというから。」

少し、見当外れかもしれない答えを述べた。

何も疚しいことなんてないのに、おかしな話なんて持ち出していないのに、何故だか彼女の瞳が僕を責め立てるように捉えているから、僕の頭は働かなかった。目は泳いで、手には寒いのに汗をかいた。

__女性は体を冷やしてはならない。

理由は良くわからないが、口を酸っぱくして親類が言うので、僕は数学の公式を覚えるように、額面と使い方だけその言葉を脳内に繋ぎ、飼い殺していたのだ。

はじめて役に立った知識だ、と、女絡みのない地味な暮らしをしていた自分を嘲った。

暫く僕をその瞳孔の中に閉じ込めていた彼女は、信号が青に変わる頃、満足したのかその目を三日月に細め、言った。

「私、雪では傘をささない主義なの。」

彼女は左足で白線を踏んだ。遅れて僕は右足を出した。ささやかに地面に重なる粉雪は、僕たちの足跡をはっきりとさせない。

「それはどうしてだい?」

今度は僕が訊いた。"寒さで余り口を開けたくない"と考えた。

「人間はずるいの。」

「雪の日ぐらいは、風邪をひいてあげなきゃ。」

白い吐息が見えた。僕からの角度では、先を行く彼女の唇までは見えない。

ただ、悴んでいるのだろうなと思った。

物心つく前から、なんとなく知っていた。想像つくようになっていた。

言葉を知る前に、事象を知る前に、たぶん植え付けられていた。

「冬が可哀想じゃない。」

そう言った彼女の顔はわからなかった。わからないまま、あの晩は終わった。

脳の容量を食うには勿体ない、ただ明日には忘れるような、すこし変わっただけの、それ以外は何も取るに足らない話だった。


だけど僕はそれを、確かに今日まで忘れられないままでいる。

12/17/2022, 2:30:23 PM