生物学ガン無視のおはなしです。非科学バンザイのおはなしです。
3月3日の都内某所。丑三つ時のとあるアパートで、対人恐怖症と人間嫌いと寂しがり屋を併発してしまった捻くれ者が、その日の仕事で使う資料を作りながら、コーヒーを飲んでおりました。
大量採用と大量離職を繰り返す職場の荒波と悪意に揉まれ、擦り切れて、はや十数年。
蓄積した疲労が、重いため息となって部屋の空気に飽和します。
金を貯めた先の、夢見た未来はどこへやら。
カップに残ったコーヒーを飲み干して、さてもう少し、とパソコンのディスプレイに向き直ったその時。
ピンポン、ピンポン。
こんな夜更けに誰でしょう。インターホンを鳴らすものが在りました。
「ごめんください!」
ストレスと深夜の眠気と、それから物語のお約束で、捻くれ者が相手の確認もせずドアを開けると、
二足歩行の子狐が、右手にキツネノチョウチンの明かりを、左手に葛で編んだカゴを持ち、頭をうんと傾けて、部屋の主を見上げています。
「菱餅ヨモギ餅さくら餅、いかがですか!」
明らかに非現実的な状況です。捻くれ者は数秒硬直して、フリーズした思考に無理矢理再起動をかけ、
「ゆめだな」
頭をガリガリ。ドアノブに手をかけました。
「いけない。起きないと」
「待って!おねがい待って!」
きゃんきゃん。子狐が必死にズボンを引っぱります。
「このゴジセーなの、誰もドア開けてくれないし、おもち買ってくれないの」
そりゃそうです急増する強盗・傷害事件によって防犯強化が叫ばれる昨今ですから。
「1個でもいいから、おねがい、おねがい」
きゃんきゃんきゃん。ご近所迷惑待ったなしの声量ですがりつく子狐。
とうとう根負けしてしまった捻くれ者は、その日数度目のため息を吐いて、ひとまず子狐を部屋の中へ入れることにしました……
「希望……きぼう、ね」
「うん、何か1年くらい、すがってられそうなやつ」
「何故よりによって、私なんかに聞こうと、」
「宇曽野主任が『あいつは初恋の相手に4回心をズタズタにされたけど毎回3日で戻ってきた』って」
「なんだその地味に半分本当なウソ野ジョーク」
年度末。この、限りなくブラックに近いグレー企業との付き合いも、早いもので数年。
達成目標とは名ばかりの、ノルマの量も増えてきて、いよいよ転職の可否が脳内会議に上がり始めた頃。
そういえば、誰よりこの職場に向いてなさそうな先輩は、はたして何を1年のモチベに設定してるのかと。
私もそれを心に持てば、もう少し頑張れるのかなと。
ふと、気になって、聞いてみた。
「希望、1年……」
唇の下に、思慮の親指と人差し指をあてて、
「……うん」
長考の後、恒例の「私の意見など役に立たないので置いといて一般論を話します」の顔と抑揚でいわく、
「ストレス解消できるものを見つけたらどうかな」
「……が建前で、ホントは?」
「ん?」
「何か別に自論有るんでしょ。そっちは?」
「……んん……」
仕事の帰り。学生時代の二次創作仲間と再会して、久々に緩めた財布の紐。夜の焼肉屋の奥の個室。
「まだ続けてるの、T夢」
「やめちゃった。呟きに上げてたら、知らないひとにカイシャクガー爆撃されて。何年前だろう」
初めてのオフ会、ここに建ってたカラオケだったねと懐古に笑う、昔々物書き乙女であったふたりが、
豚トロをつまみカルビを敷いて、申し訳程度の野菜を、ジョッキの隣に待機させている。
「そっちは?サイト無くなってたけど」
「概念アクセに引っ越した。カプも原作の名前も書かないで、黒白チャームですーって。好きな子で想像してくださーいって。誰でもないから指摘も来ない」
「便利」
「うん便利」
「自分の好きを欲望マシマシで書いただけなのにね」
なんでそれを、他人に批判されるんだろうね。
カリカリの鶏皮を突っつくかつての夢物語案内人に、
「きっと欲望マシマシだからだよ」
元薔薇作家が、妙に真面目な火照り顔で語った。
「こっちが塩だから、向こうのタレと合わなかったんだよ。塩分過多で、ぶつかっちゃったんだよ」
「どゆこと」
「分かんない」
「酔ってる?」
「酔ってない」
「私の故郷はね」
昼の休憩時間、美味い低糖質ケーキを見つけたから奢ると手を引かれて、外出した先のオープンカフェ。
「雪が酷くて、4月直前にならなければ、クロッカスも咲かなくて」
通行人の、その先の虚空に視線を置いて、田舎出身の先輩が、ぽつり、ぽつり。
「今頃はまだ、妖精さんも雪の中だ」
ミルクを落としたコーヒーを、スプーンでゆっくりかき回しながら、言った。
「妖精さん?」
「『春の妖精』。調べてみなよ。色々出てくるぞ」
「リスとか野ネズミとか?」
「私のところはキクザキイチゲが多かった」
「何それ?」
「キクザキイチゲはキクザキイチゲさ」
私の無知を、穏やかな温かさで笑って、コーヒーをひとくち。
「いつか、おいでよ」
先輩が、虚空を見たまま言った。
「遠い、何もない、花と山野草ばかりの街だけど」