犬の散歩をしている人とすれ違う。
歩きながら犬がわたしのほうに顔を向ける。
首が後ろにまで向いたとき、犬は「元気だしてね」と言った。昔飼っていた実家の犬と同じ声だった。
書類を届けにオフィスビルでエレベーターを待っている。扉が開くと、女性が泣きながら飛び出してきた。そのあとを男がキムタクばりに「ちょ、待てよ」と声をあげて追いかける。
エレベーターに乗り、扉が閉まる直前、女性が男にビンタした。その音が耳に残ったままエレベーターは動き出す。
ランドセルを背負った女の子がいる。
「あれ? 降りなかったの?」とぼくは聞く。
「パパに忘れ物届けに来たんだけど、もう一回行って来る」と女の子は答える。
「会えなかった?」
「ううん、心を落ち着けたいから」
きみのほうの物語を、ぼくは知りたい。
街灯が故障しているのか、帰り道がいつもより暗い。こんな暗がりの中を歩いて危ない目に遭ったなら、歩いているほうが悪いだろうか。悪いのは危ないことをするほうだとわたしは思うのだが。クマにでも会ったら仕方ないけど。
と思っていたらクマに会ってしまった。
思ったより大きくない。子グマだ。
子グマは顔を上げて空を見ている。
同じように見上げると星が瞬いていた。
綺麗だ。
人里へ降りてきたきみが悪いんじゃない。
だからおかえりなさい、きみの暮らすところへ。
四人がけのテーブルで、老夫婦は横並びに座っている。夫は新聞を広げ、それを横から妻が覗いて一緒に読んでいる。
紅茶が運ばれてきて、夫はそれをカップに注いだ。妻がそれを飲む。
棺桶には紅茶を入れてちょうだい。と妻が言う。
紅茶の葉っぱを入れるの? と夫が聞く。
うん、そう。
遺骨が紅茶の香りになりそうだね。
うん、あなたは紅茶を飲むたび、わたしを思い出すでしょう?
先に死ぬの、俺だし。そしたら金木犀を俺の棺桶に入れてくれない?
秋だったらね。
紅茶の香りが店内に広がっている。
何を言われても「ラブ」って答えてね。と姪っ子が言う。
「愛」と言われ「ラブ」とわたしは答える。
「愛」「ラブ」「愛」「ラブ」「愛」「ラブ」「愛」「ラブ」「愛」「ラブ」「愛」「ラブ」
「泣いてるの?」「え?」
だめだよ、ラブって答えなきゃ。
そっか、と笑うわたしの頬は濡れている。