毎日毎日、本当に自分はこれで良いのかと問いかける日々である。
周りはどんどん進んでいく。比べようのないものだと頭では分かっているが、どうにも自分が嫌になって仕方がない。
けれども、こうしてもがいている時間も不可欠だったと思える日が、いつか来ると信じている。
今は飛ぶ前の準備期間だ。助走をつけるときには何度転んだって構わない。きっと後で役に立つのだから。
飛べ。
二人だけの。
その後に続く言葉はなんだろう。
私だったらなんて書くかなぁ。
あ、でも他の人に知られたら二人だけのものじゃなくなっちゃうのか。
じゃあ秘密。
外へ飛び出した。
苦痛が僕を襲ったからだ。家にいるとだめだ。外に行こう。風を浴びて、夏の雲と空の青を見にいこう。
そう思って、家を飛び出した。
とにかく歩く。気になっていた道を、とにかく進む。知らない道ばかりだ。スリルを抱え、とにかく歩き続けた。
結構時間が経ったので地図アプリを見てみると、かなり遠くまで来ていた。のども渇いている。もうそろそろ戻ろう、と思った矢先に、坂の下に風に揺らぐ黄緑色の田んぼが見えた。それは「夏」を体現していた。気がついたら引き寄せられるように、そこを目掛けていた。
それからはもう、子供に戻った。
田んぼを見ながら、サンダルのまま走る。走る。走る。ゴム製のサンダルが擦れて足が痛んだが、なりふり構わず走った。風が髪を暴れさせていたが、それすら気持ちが良かった。子供だ。私は今、子供なんだ。だから無邪気に走っていいのだ。気の向くままに、自由になっていいのだ。
空は曇っていた。けれども景色は、まさしく夏だった。
結局その後迷子になって、地図アプリを使ってなんとか家に帰った。
けれども明日から、また頑張ろうと思えたのだった。
隠された真実と書いて、
潜在している優しさと読む。
風鈴の音、と聞いてセンチメンタルな文章を書けるほどの思い出はない。
風鈴の音か〜、夏を感じられて良いよね、的なことをあんまり聞いたこともないくせに、いっちょまえに語る程度だ。
ただ、風鈴の思い出だったら、祖父母の家の風鈴が思いつく。庭の物干し竿に、特に意味もなくぶら下がってたやつである。なんなら、見た目も涼し気なガラスではなく、ずんとした重い鉄器のものだった。
そういえば、毎年夏休みに遊びに行くと、いとこと一緒に子供らしいことをして遊んだなあ。かるたとかオセロとか水遊びとか。夕方の涼しい時間には川沿いを散歩して、いつもとは違う自然風景には子供ながらに趣を感じたものだ。
なんだ、結構思い出を連れてくるじゃないか。風鈴の音。