顔を突き合わせ、同じテーブルに座る。
視界が貴方で埋まる。色んな表情が見えて嬉しい。
話し始める。最近あったこと。楽しいこととか、ダルかったこととか、どうでもいいこと。目を合わせるのが苦手だから、少し目線を上げる。
頷く貴方
感心する貴方
驚く貴方
感嘆する貴方
どんな話でも楽しそうに相槌を打つ貴方。
こちらの話しが落ち着くと、今度は貴方の番だ。
頷く私
感心する私
驚く私
感嘆する私
向かい合わせの私たち。代わりばんこに話している。
こんなに幸せな時間があっていいものか。時間がごうごうと勢いよく流れる。
この時間がだらだら続けばいいのにな。
←慣れないポジティブな事を言いたかった人
「やるせない気持ち」
お題がとにかく難しい。私にとって「やるせない」はなんとなく語彙にはあるけど、すぐに出てくるものではないからだ。
私の「やるせない」は必ず後からついてくる。ある悲しい出来事があったとすると、その時に思うのは「悲しい」であり、「やるせない」ではない。後になって思い返して初めて、「悲しい」が「やるせない」に変質する。
そもそも「やるせない」とはどういう気持ちなのだろうか。疑問に思い、スマートフォンに指を滑らせる。
「やるせない」は「遣る瀬無い」と書き、「悲しみを紛らわそうとするも、晴らしどころがわからない切ない気持ち」だそうだ。なるほど、この感情には悲しみ→晴らしどころが無い気持ち、の二つの過程が必要なのか。つまり「やるせない」は後からやってくるのではなく、「悲しい」から「やるせない」になるまでの感情変化の過程が「やるせない」なのだ。
「悲しみ」から連鎖する感情。悲しみから枝状に広がった先の一端が「やるせない気持ち」なのだろうか。意味を考えると、悲しみの晴れどころがなければ、遍く悲しみはやるせないに繋がれる。
大学生の時、通学路に海があった
見える時間はほんの数分であったが
爽やかな、けれども深い青をしたその物質に
私は強烈に目を惹かれ、その時だけは黒い板から目を離す
子どもも、老人も、はたまた仕事中のサラリーマンも
その一時だけはみな各々の時間を置いて
意識を向ける
空を映し出す鏡へ
ひとつの海へ
介護職をしています
施設には軽度重度問わず、認知症の利用者でいっぱいです。
介護歴が長い方ほど、認知症は一意に「悪いこと」という認識ではない、という認識になっていると感じます。例えば服を裏返しに着てしまうこと、表裏に着てしまうこと
こういったことは「服を正しく着ることからの開放」
例えば昼夜帯の混同
これは「時間感覚からの開放」
といったように、認知症は様々なものからの開放、といった認識です。
長い時間をかけて積み重ねてきた荷物 言い換えて、これまでの人生で囚われてきたもの(時間や常識、なにかを覚えるといった感覚でさえ)
これらを下ろしていく過程、自分にかけられていた枷を外していく過程
これが認知症だよね、と感じます。
でも、考えてみれば「服を着る」という考えは残っているんです。例え裏返しであろうと、服は着るもの、着ないと恥ずかしいという概念は染み付いている(認知症の進行によってはこの考えも薄れてゆきます)。だって本人はそれでいいと思ってるんです。合っている、正しく服を着れている、と思っているんです。個人主義である現在、言ってしまえばそれで良いじゃないですか。本人が満足しているならそれでいいじゃないですか。
でも世間はそうじゃない。服は裏返しせず正しく着るものだという常識があります。なにも間違っていない。正しすぎるほどに正しい。
我々の仕事はそういった「裏返し」を直す、または「それ裏返ってますよ」と声を掛け、ちょっとだけ世間と合わせてあげる。
介護ってそういった仕事なのかな、と思っています。
上段落の言葉を使うと、我々の仕事は「開放されたものと世間とのズレを修正する」というのが正しいのかな。
以上、個人の見解でした。必ずしも正しいわけではないのであしからず。
久しぶりに長めに文章書いて疲れた😫
みわたす
たかいところから
俯瞰的に
すうっと世界が明るく暗く
光って見える
はばたく
たかいところから
遠い場所に
まわりの風が強く、弱く
吹いている