部屋中の明かりを消す。空の浴槽に身を沈め、キャンドルに火を灯す。ぼんやりとしたオレンジが静かに揺らめきながら、無機質の白を染めてゆく。
噛み煙草を喫む。
心拍さえもきこえない無音の丑三つ時、心地好い夜に深く深く呑み込まれてゆくのを感じながら、すっと息を吐く。まるで魂が天に昇ってゆくかの如く、白煙が景色を鈍く濁した。
冬になったら、そうだなあ。人の波が落ち着いた頃にでも旅行に行きたい。ひっそりとした、自然の多いところ。海や湖の見える部屋が好ましい。
そもそも秋口には何処かへ行こうと画策していたのだ。それこそオーシャンビューやらオーシャンレイクと銘打つ宿を探していくつか候補を見繕っていた。結局のところ、体調不良によって機を逃してしまったのだが。
特に何をするわけでもなく、ただ水面を見つめるだけの数時間を過ごすのが好きだ。
今年の海開きが始まる前に行って眺めた無人の海は素晴らしかった。深夜から日の出にかけて映る色の移り変わりの何と美しかったことか。
あの時期でさえそれなりに冷えたから、冬に行くとするなら相当の厚着をしなければならないな。正月明けはまだ混雑しているだろうか。また宿を探さなければ。
空に舞う雪を眺めるだけの旅も良さそうだ。しかしその場合どう調べれば良いのだろうか。オーシャンスノーなんてあれば容易に検索できるんだがな。
最近見掛けた君は髪を短く、明るくしていた。以前のような妖艶さを感じる黒い長髪も良かったが、今のような活発さもよく似合っている。
お茶目な仕草とあの笑顔は何も変わらなかった。
離れた、なんて言葉は己の一方的なものなのだろう。
現に、そちらはこちらの髪がどうなったかなんて知り得ないし知ろうともしないだろう。
──自分も髪を切っただなんて。
もう関わることのないであろう人間のことはこの世からいなくなったと同然の扱いをする。
二度と会うことはないのだから、亡者と変わりないだろう。相手から別れを告げたのなら尚更。
「仕事で東京に戻るから会お」
突拍子もなく届いた台詞に驚きつつも、冷静に言葉を返す。
「まだ一緒にいたい」
終電前、袖を掴んできた君を連れて踵を返す。
上手く笑えているのかわからない。チープなホラー映画を呆然と眺めている気分だった。
これはポルダーガイストだ。メッセージなんかはよく聞く話だし、幽霊だと気付かず共に1日過ごすというのも聞いたことがある。腕や脚に手形を残す程に掴んできた話だって有名だ。
……それじゃあ幽霊を抱く話はどうなんだ?
疲れ果てた君は隣で無防備に寝息を立てている。呆れて失望して軽蔑して距離を置こうとした生前の記憶は忘れてしまったのだろうか。
この世の者ではない存在と一緒にいると生気を吸われて体調が悪くなるらしいというし、仄かに感じ続ける吐き気はそのせいだろう。
これは悪霊だ。成仏出来ない哀れな霊。そんな悪霊を抱いた自分は完全に取り憑かれたんだろうな。
でも馬鹿な霊ではないと知っている。
わかっているだろう。いくら生きた人間に取り憑いたって決して幸せになれないと。だってもう生きていないんだから。
この夜が明けたらきっと君は光の方へ飛んでいく。
「じゃあまたね」
また君は地を這う自分を置いていくんだろう。
だったらとっとと成仏して消えてくれ。
生きてた君は嫌いじゃなかったが、幽霊や遺体には興味はない。
どうせ近いうちに自分もこの世を去る。もしも君が望むのならばその後に。
お互い、生まれ変わったらまた会おう。
好奇心が強い。それは創作活動の延長線ともいえるが、生まれながらの性分であるともいえる。良くも悪くもなんて枕詞が付きそうなものだが、傍からすりゃ悪いの割合の方が高いようだ。
大学生になって半年が過ぎた頃、1人の女友達から連絡が来た。
彼女とは小学中学とそこそこ長い期間、親しくしていたひとりだ。グループでの付き合いだった故に、決して2人きりで遊ぶような関係ではなかった。
そして中学卒業以来、全くといって良いほどに関わりがなくなっていた。
既に訝しみつつも、グループ交友の幹事である可能性にかけてメッセージを開く。そこから先はトントン拍子のやり取りだった。
次の休日に2人で食事に行くこととなり、当日、待ち合わせ場所であるレストランへ向かうと先に来ていた彼女の隣には知らない女がいた。大学の同期だと紹介されたが、どうも2人の間にはよそよそしさを感じる。そして食事もそこそこに女は切り出した。
端的に言えば宗教勧誘だった。進学してから人間関係が難しくなった彼女はとある宗教にのめり込み、今日は幹部であるこの女を連れて自分を勧誘しにきたという。
女から逸話やご利益を聞かされ、近くにある聖域(事務所)にて入会手続きを頼まれた。
宗教自体は一旦置いておくとして、わざわざこんな騙すようなやり方で勧誘してくるような奴等なんて関わらない方が良い。帰るのが先決だ。誰も彼もそう思うしそうするであろう。
勿論、自分は二つ返事で彼女達について行った。前述の通り、好奇心が強いのである。
こんな滅多にない面白い体験、経験しておかない理由がない。肝試しで深夜の学校に侵入しようと誘われれば秒でついて行く性分なのだ。
ついて行った結果は随分あっさりとしていた。聖域も御神体といわれるものも大したことはなかった。面白さに関してはレストランで「じゃあ三大宗教も全て偽物なんですか」という質問に即答で肯定された時がピークだっただろう。
お祈りと入会書類を記入し、早々に解散した。
勿論、全て適当である。好奇心とリスクヘッジは両立するのだ。
こんな面倒事にこれ以上首を突っ込んでも何の面白みも得もないなら馬鹿正直に相手をする理由なんてない。何があっても自分だけは学校の警備員に捕まらないよう動きまわれるだけの小賢しさも生来の性分だ。
その後も彼女は他の友人も誘ったらしいが、元々グループを盛り上げるだけしか出来なかっただけに個人の連絡を怪しまれ、自分がタレ込んだ体験談を決め手に縁を切られたようだった。そして自分も彼女との関係を断ち切ってこの話はお終いとなる。
最後の締め括りとして、ひとこと。
猫を殺したくなければ窮鼠にさえ百の注意を払え。