何もしたくないので翼すらないと思っていたが、翼がある。
大きく羽ばたければ、目標達成するだろう。
そしてその可能性が、私にはある。
その可能性は、眠気とスマホによって消えていく。
スマホはなんとかなるが、眠気はなんともならない。
いや、なんとかするのだ。しかし何をするにしてもやる気にならない。
こういう時は、少し心を和ませてあげるといい。
心から楽しめるコンテンツを再生して、気分を良くしよう。
やらなければ…という思考をそらすだけで、半分は成功している。
心のバランスを崩した。
理想と現実のギャップに耐えられなくなった。
頑張っても頑張ってもその差は埋まらない。
もう心のエネルギーは枯渇しているのに、
それでも頑張れと自分を励まし続ける。
もう、サポートすらしてほしくない。
いずれ頑張らなければならないという現実を引き寄せるから。
サポートは、もはや重荷でしかない。
いいんだよ、やめちゃいな、そんな事より遊ぼうぜ
そんな風に気軽に聞いてくれる人はいない。
相談先はいつも真面目で、いい加減な事を言ってくれない。
それがさらに私の首を絞める。逃げ道がなくなる。
それは希望の光に導いているように見えて、
私に絶望感を抱かせる。逃げられない。逃げられない。
この現実から逃れるには、どうしたらいいの?
結婚しない人生なんて意味がない。
夢が叶わない人生なんて意味がない。
そう思っていたけど、これは0か100か思考で、極端で病気になりやすい思考だ。例えば、恋人ができるが50、関連した職につけるが70。こういう風に、0と100以外の中間点を探してみる。異性と話すが10、資格の勉強をするが20。婚約するが90で最終選考が80。まったく異性と関わらない人生もなければ、まったく夢と関わりのない人生もない。今生きているだけで丁度50。そんな考え方もある。異性と仲良くなったら60、勉強したら60くらいあげてもいいんじゃない。0か100か思考っていうのは、私の場合、すべて思い通りに生きるか死ぬかの2択思考だから、この考え方は危ないね。思い通りにならない事もあるよ。それが人生の味。願ってもないのにうまくいった事だってたくさんあるんだから、このくらいあっても、仕方ないか。
私の中に2人の自分がいると思う。
今日はよく頑張った。頑張ったから今日はもういいか。
と思う自分と、もう少し頑張れるのでは?こんなんじゃ全然ダメ。
と思う自分。頑張るのを実際やめてしまうのだから、おそらく無意識では前者のような考えになっていると思われるが、この無意識を通り過ぎて自分に厳しい自分が主張する。これらはどちらも私だが、この2人の自分のバランスがとれないと心に不調をきたす。自分に厳しい自分が暴れ出して、私の心をめったうちにするのだ。実際の行動に反映されればいいが、この厳しい自分の言う事を、体はきかない。心だけがダメージを受けつづける。こんな思考はもう無意味どころか逆効果だと、3人目の自分は俯瞰する。心ではなく、体が先に動けばいいのになぁと思う。心が先にあるから心で評価する。考えるより先に体が動けば、体が満足感を得られる。あるいは考えた通りに動ければ、心のままに動ければきっと後悔も少ない。あーやらなきゃな、と散々思考した後に、実行する。やっと実行したら、あーやらなきゃなと思っていた自分を責める自分が出てくる。この2人は同一人物だ。あーやらなきゃなと思ったらもうそれは自己否定で、その時点で自分を攻撃している。今ここに意識がない。文章作ってるとスッキリするな、新たな発見がある。このように、今を楽しむ思考、今やっている事を肯定する思考こそ、自己肯定感なのだ。自分に厳しい自分は客観的に自分を見ている"あなた"として切り分けられるべきであり、今肉体がやっている事と気分が一致している状態こそ、"私"なのである。
雨が降っていると、なんだか落ち着いた。
外に出なくていい。何もしなくていい。
私の全てを許してくれるような、そんな気がした。
私の陰鬱な気持ちに、その雨音は優しく寄り添ってくれる。
思考のノイズが心地良くかき消されて、ただ無心になる。