私の中に2人の自分がいると思う。
今日はよく頑張った。頑張ったから今日はもういいか。
と思う自分と、もう少し頑張れるのでは?こんなんじゃ全然ダメ。
と思う自分。頑張るのを実際やめてしまうのだから、おそらく無意識では前者のような考えになっていると思われるが、この無意識を通り過ぎて自分に厳しい自分が主張する。これらはどちらも私だが、この2人の自分のバランスがとれないと心に不調をきたす。自分に厳しい自分が暴れ出して、私の心をめったうちにするのだ。実際の行動に反映されればいいが、この厳しい自分の言う事を、体はきかない。心だけがダメージを受けつづける。こんな思考はもう無意味どころか逆効果だと、3人目の自分は俯瞰する。心ではなく、体が先に動けばいいのになぁと思う。心が先にあるから心で評価する。考えるより先に体が動けば、体が満足感を得られる。あるいは考えた通りに動ければ、心のままに動ければきっと後悔も少ない。あーやらなきゃな、と散々思考した後に、実行する。やっと実行したら、あーやらなきゃなと思っていた自分を責める自分が出てくる。この2人は同一人物だ。あーやらなきゃなと思ったらもうそれは自己否定で、その時点で自分を攻撃している。今ここに意識がない。文章作ってるとスッキリするな、新たな発見がある。このように、今を楽しむ思考、今やっている事を肯定する思考こそ、自己肯定感なのだ。自分に厳しい自分は客観的に自分を見ている"あなた"として切り分けられるべきであり、今肉体がやっている事と気分が一致している状態こそ、"私"なのである。
雨が降っていると、なんだか落ち着いた。
外に出なくていい。何もしなくていい。
私の全てを許してくれるような、そんな気がした。
私の陰鬱な気持ちに、その雨音は優しく寄り添ってくれる。
思考のノイズが心地良くかき消されて、ただ無心になる。
あなただけが生きる理由。そういう洋楽の歌詞があって、そのフレーズだけ歌える。文法的にスッと理解できて、切なげな歌い方がさらにその歌詞を印象深くしていた。
私の人生に一筋の光があるとしたら、その歌詞のように、生きる理由になる人ができる事だ。生涯一緒にいたいと思えて、心から愛し合える人…。
夢を見ているのだ。過去の恋愛を思い出して、また同じような楽しい経験ができると思うと気分が高揚する。でもそれは、一筋の光ではなく、過去が見せた幻。
だとすると、一筋の光とは私にとってなんだろう。明日がある事、家族がいる事、自己成長をしていく事…。
目標を達成して自己成長をすれば、明るい世界に行けると思っていた。それは確かに、一筋の光らしかったが、いざ目標達成してみると、待っていたのは燃え尽き症候群だった。
ならば人の役に立つとか、月並みに働くとか、そういう事だろうか。お金を稼いでも、何に使うわけでもなくためてきた。旅行に行くとか、買い物をするとか、そんな刹那的な幸せはありふれていて、まやかしのように思える。
趣味がある。体を動かすのが好きだ。マラソン大会に出てみようか。もともと短距離走タイプの私にとっては挑戦だが、きっとこれも終わったら、残ったのは疲労感だけだったと、私は言ってのけるのだ。
私にとって、一筋の光とは、スマホのブルーライトの事を指すかもしれない。これは物理的に"一筋の光"である。それに、当たり前にあるようでいて、たくさんの可能性を秘めているようにも思えるのも、一筋の光にふさわしいのではないか。
それではこの光に照らされて、私はどこに導かれていくのだろう。それとも、こんなもの、破壊する?
人生の半分くらいの道に陰がさした。
私に残されたもっともらしい道は狭く長く、息が詰まりそうな道だった。疲れ果てた私にとっては傾斜も急で、とても進めそうにない。このまま息絶えるのもいい。そう思った。這いつくばって、力尽きて横たわり、冷たい土が体を冷やす。その状態が心地よくて、もうこの1週間くらいそのままだ。このまま土にかえるのもいい。
私が幸せになることなんてない。ハイブリッドカーが天から降ってこない限りない。そのくらいごっそりと、人生の選択肢は狭まった。涙は枯れ果て、それでも水をたくさん含んだ雑巾のように絞り出る。悲しみの掃除をしているかのようだが、必要な水は不安定な気分によって供給され、いつまでたっても土を含んだ泥のまま。この気持ちが浄化されることなんて、一生かけてもない。そう思う。