「心の羅針盤」
夜も更けて、ふと窓を開けると、星が一つ、青白く瞬いていた。その瞬きは、どこかおずおずとしながらも、確かにこの夜空の一角を支配しているように見えた。夜風がわずかに頬を撫でていく。ひんやりとしたその感触に、私は思わず目を細めた。
人にはそれぞれ、見えぬ羅針盤が心の底に据えられているのではないか、とふと思う。進むべき道に迷ったとき、目の前の明かりに頼るだけでは足りない。むしろ、こうして夜風に吹かれ、遠い星の光に目を向けたとき、静かに何かが指し示されるのを感じるのだ。
若い頃は、羅針盤の針がどこを向いているのかもわからず、不安の中で手探りしていた。しかし幾たびか星空を見上げ、夜風に身を晒すうちに、自分の中の針がふと動く感触を知るようになった。
何が正しい選択なのか、誰が保証してくれるわけでもない。ただ、あの星の光が遠い昔と変わらず私の目に届くように、心の羅針盤もまた、私なりの答えを静かに指し示してくれる。夜の静けさの中で、私はそれにじっと耳を澄ますのだ。
「泡になりたい」
砂浜に立ち、愛犬の黒い毛並みが潮風になびくのを眺めていた。海は今日も広く、どこまでも青い。犬は波打ち際で飛び跳ね、小さな泡の群れに興味を持ち、鼻先でつついてははしゃいでいる。私はぼんやりと、その泡を見つめていた。
泡は、波が砕ければ生れ、しばらく漂って消えていく。儚さという言葉が、これほど似合うものも少ない。その在り方が、ふと羨ましくなった。何かに執着せず、すべてを預けて、かたちも気配も残さず消えていく――そんな存在でありたいと願う自分が、どこかにいるのだろう。
愛犬は、泡をひとしきり追い終えて振り返る。濡れた鼻先に光るしずくが一粒。私は彼に微笑みかける。その一瞬、泡のように柔らかな幸福が、胸の奥に生まれては消えていった。
「半袖」
日差しが強くなる前に、犬と朝の散歩に出る。
犬は短い足で先を歩き、時々こちらを振り返る。
その姿を眺めていると、去年の夏の散歩を思い出す。同じ道を、犬と歩いたあの日も半袖。
あのときと同じように、すれ違う人が「暑いですね」と笑った。
今年も半袖で犬とゆっくり歩く。
犬の背中を見ながら、今年の夏も素敵な思い出になる予感がした。
自転車に乗って
どこまで行こうかどこに行こうか
君の好きな芝生の公園に行こうか
それともメタセコイアの森まで行こうか
君の好きなところに
いつまでも君と一緒に
君の奏でる音楽は
虹色で丸くて軽く跳ねて
ピアノから離れたその音の粒たちが
ホール中に広がって聴衆を優しく包み込む
あぁまるで春の陽だまりのような