【酸素】
空気みたいな人って言ったら、なんだか悪口っぽいけど、酸素みたいな人って言うと、ちょっとありがたいような気がしてくるよね。
やっぱりそれだけ重要ってことかな。
あなたは私の酸素。
居なきゃ呼吸できないんだからね?
ちゃんと近くに居てよね。
でも酸素って、過ぎると毒なんだっけ?
そんな所もあなたっぽい。
甘やかされて駄目になっちゃう。
【記憶の海】
私の記憶の海の底には、たぶんアカハライモリが住んでいる。
イモリだから、海水には住めないと思うから、もしかしたら、私の記憶は海じゃなくて湖なのかもしれない。
とにかく、底には黒い砂利があって、黒い背中に斑に赤い腹のイモリが居ると思う。
何故なら、それが私の思い出せる限りで一番古い記憶だから。
本当にあったことなのかどうかもよくわからない。けど、黒い砂利の水溜まりに鮮やかな赤い腹をしたトカゲモドキが居た……そんな光景を、何故か幼い頃から忘れられずにいる。
BLです。苦手な方はご注意ください。
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【ただ君だけ】
「あー。マジかよ、ふざけんな」
つい溢れ出てしまった悪態に、同僚たちが何人かギョッとしてこちらを見た。すぐに口を閉じて表情を消した。『今の、聞き間違いだよな?』という視線のやり取りが交わされて、結局誰も何も言わなかった。
いけないいけない。気を付けないと。『マジかよ』だとか『ふざけんな』なんて、相応しくない物言いだった。
だって今の僕は侯爵家の三男であり、社交界では『金の薔薇』と呼ばれる見目麗しい貴公子ロドリック・カルヴァートなのだ。この王国魔法薬研究所の筆頭薬師。いくらか無愛想ではあってもガラの悪い男ではない。
4歳の時に前世を思い出してからずっと、僕は頑張ってきた。あまり庶民的すぎる言動をしないように、貴族の社会に馴染めるように。
自由を失うことは避けたくて、我儘を通せる立場を手に入れようと奮闘した。薬神フェネル様から授かった加護を活かしつつ、勉強もして実績を積み上げてきた。
今なら僕がちょっと脅せば、かなり無理なことも叶うだろう。
だけど、この話はきっと拒めない。僕は手元の紙に視線を戻した。要約すると『第三王子との婚約が決まった』そう書かれている。姉や妹の話じゃない。僕が婚約するのだ。
大きすぎる力を持つ僕を王家に従わせるためだ。この国には王女がいないし、法律は同性婚を認めている。王子の結婚相手が同性というのは異例ではあるけれど。
僕は少しばかりやり過ぎたのかもしれない。瀕死の人間が飛び起きるような薬は作るべきじゃなかった。王子をひとり犠牲にしてでも、僕の行動を制限したいのだろう。
そう、思っていたんだけど……
久しぶりに会った第三王子、僕と王立学院の同級生だったアーネスト殿下は、僕を見てうっとりと笑った。
「ああ、良かった。ちゃんと来てくれたね、ロドリック。金の薔薇は今日も綺麗だ」
なんだか様子がおかしい。
「あの……この婚約は政略的なものなのですよね?」
「誰がそんなことを言ったんだい?」
「え?」
アーネスト殿下が僕の手を撫でた。
どういうことだ。まさか……
「私が欲しいのは、隣に並びたいのは、一緒に生きたいのは、ただ君だけだよ、ロディ」
僕の能力のせいではなく、この人が僕を望んだから決められた婚約なのか。本当に?
「僕をこの国に縛り付けるための嘘なら、おやめください」
「酷いな。信じてくれないのか」
信じろと言う方が無理だ。その時はそう思ったんだけど。僕に向かって『君が信じてくれるまでじっくりと口説かせてもらう』なんて宣言したアーネスト殿下は、会うたびに愛を囁いてきた。
その表情は、言葉は、ただの演技には見えなくて。もしかしたら本気なのかと思うようになり、会えないと物足りないと感じるようになっていった。
婚約から半年。アーネスト殿下の隣が居心地良くなってきた自分を否定できない。指先にキスをされても動じなくなった。すっかり絆されている。
でも。きっと結婚したら今のようには口説いてくれなくなるだろう。それはなんだか寂しいような。
だから、もう少しだけ。
まだ信じきれないフリをしていたい。
長いです。2,000字くらい。
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【静かなる森へ】
森というのは意外と騒がしいものだ。風が吹けば枝葉が音を立てるし、虫も鳥も獣も鳴く。川があれば水の音だってするだろう。
それなのに、王都の東の森が突然しんと静かになってしまったという。あまりに異様で不気味なので、何が起きているのか探って欲しいと魔法士団に調査の依頼がきた。
実際に仕事を引き受けることになったのは、土魔法と風魔法が得意な先輩、それと水魔法と植物魔法が使える僕。
僕の緊張を察してか、先輩が茶化すように言った。
「さて行きますか。静かなる森へ」
「これ……僕らの担当ではないですよね」
森の少し手前で立ち止まり、僕はそれを見た。
結界だ。かなり巧妙に隠されている。空間魔法の使い手が相当な魔力を注ぎ込んで、慎重に張り巡らせたものだろう。
「そうだねぇ……調べるなら空間魔法に適性がある奴連れてこないと」
「でも、わざわざこんな場所に結界なんて。何のために」
「何かを隠しているのかな。それとも立ち入りを制限したいのか……まあ、ろくなものではないだろうね」
先輩がそっと結界に手を伸ばした。
「危ないですよ!」
触れれば結界の主に勘付かれるかもしれない。触れた者を弾く結界というのもある。
「触らないよ。本気じゃないって……」
笑って振り返った先輩の背後。めきめきと枝をへし折りながら、巨大な白い竜が空から降りてきた。
「うわぁあ!」
僕は悲鳴を上げ、先輩は中途半端に首を捻って硬直した。
『だからね、私はここに仕事で来てるの。わかる?』
「はあ……」
『魔素の流れが整ったら立ち去るわよ』
「それは、どのくらいの時間がかかる予定で」
『知らないわ。やってみないと』
白竜は魔力の相性が良い相手となら意思の疎通ができると言い出した。そして、僕がたまたまその『相性が良い相手』だった。
「何て言ってるんだ?」
先輩には竜の言葉が聞き取れないらしい。
「魔素の流れを整えるためにしばらくここに居る必要があると」
「人を襲ったりはしないのか」
「……と、聞かれていますが」
『しないわよ、失礼ね』
「しないそうです」
意思疎通が可能な竜なんて、この国の建国神話くらいにしか出てこない。先輩は僕に白竜を見張らせて、魔法士団本部に戻った。とにかく上の判断を仰がないことには何もできない。
『人間は忙しないわね』
「……なんかすみません」
『いいわよ。別に私は急いでないもの』
魔法士団の団長と副団長が駆けつけ、白竜を見て流石に驚いていた。他にも数人の魔法士が来たけど、白竜と『魔力の相性が良い』のはどうやら僕だけだった。
白竜が言うには、竜というものは神々の指示を受け、魔力とその源となる魔素の流れを整えることで世界を維持しているらしい。
『魔素が淀むと魔素溜まりができるの。魔素溜まりは放置すると瘴気になって、魔獣の発生源になるのよ』
竜は魔素を循環させる力を持っているという。竜が居ればその周囲は魔獣の発生を防げるのだ。
魔素の流れを整える作業は時間がかかるもののようだった。白竜は一年経っても二年経ってもその森に居た。周辺の住民は森への立ち入りを制限されたものの、魔獣の発生が防げるということで、白竜の滞在は歓迎された。
白竜と誰かが話し合いたいという時には、僕が通訳に引っ張り出された。もはや魔法士としての仕事よりも通訳としての仕事の方が多いくらいだった。
偉そうな貴族が来て「竜の鱗が欲しい」なんて言うから、僕は青褪めながらおずおずと、それを白竜に伝えた。もちろん『一枚剥がしていいわよ』なんてことになるわけがない。貴族は白竜に威嚇されて、ガタガタ震えながら逃げていった。
『人間のこと、少しはわかってきた気がするわ』
そう言った白竜からはなんとなく苦笑の気配がした。
竜を調べたいとか、竜の魔法について知りたいという学者たちの通訳もした。白竜は代わりに人間のことを知りたがり、学者たちとは割と良い関係が築けているように見えた。やはり通訳ができるのは僕だけだった。
あっという間に10年が過ぎていた。
『そろそろ次の場所に移らないと』
「……行ってしまうのですか」
僕は白竜とかなり親しくなったと思う。だって10年も彼女の通訳をし続けたのだ。
「寂しくなりますね」
『……そうね』
白竜が僕にその鼻先を近付けても、僕はもう怖いとは思わなかった。そっとその艷やかな鱗に触れた。
『やめた』
「……え?」
『私、もう十分働いたもの。何十年か休暇をもらっても良いと思うのよね』
白竜の体が光り、その輪郭が縮んだ。光が消えると、そこには白銀の髪の美しい女性がいた。
「この姿なら、あなたと生きられるかしら」
「え……えぇえ!?」
気付けば僕は周囲から白竜の伴侶とみなされるようになっていた。まあ、嫌ではない。嫌ではないけど……
「人の姿になれるなら、もっと早くそうすれば良かったのでは」
「あら。この姿になるには人間のことを知る必要があったのよ」
それにね、と彼女は嫣然と微笑んだ。
「あなたが一生懸命通訳してくれるのが、私は嬉しかったの」
【夢を描け】
小学生の頃の宿題。将来の夢を作文に書くというもの。あれ、私は自分の本心なんて書けなかった。
どうせ大人はこういうのを期待しているんだろう、というような作文にした覚えがある。
だって当時の私の一番の望みは『ずっと子供のままでいること』だったから。
大人になるのが嫌だった。遊ぶ時間もなく、よくわからないけど『責任』ってやつがあちこちに発生して、働かなきゃならなくて、自分の自由がなくなるイメージだった。
要は未来に希望がなかったんだと思う。明るく楽しい大人が近くにいなかったのかもしれない。
そんな状態で『夢を描け』なんて言われても無理というもの。将来なんて来なくていいから遊んでいたかった。
まあ、そんな願いが叶うわけがなく。
夢らしい夢は叶わないまま大人になった。
あの作文を書いた時の私の想像と今の現実と、どちらがマシかは、正直よくわからない。