ずっと会いたいと思っている人がいる。
今でも時々夢に出てくる。
けれど連絡先も知らないし、
そもそも生きているかもわからない。
会いたいと思い始めたのは、成人式の前日。
旧友に会うということもあって、中学校の卒業アルバムを引っ張り出していた。
そうして、友人が特別多い方でもない私は
点々と書かれたメッセージの中にそれを見つけた。
「死にたくない。」
心臓が止まるかと思った。
前後には冗談めかして「せんきゅー」とか、「らぶゆー」とか書かれているのに、その1文にだけは、泣きたくなるほどの切実な思いを感じてしまった。
中学に入ってから時々しか学校に来なくなった彼女は、
来たとしても保健室に居たりしてクラスでは浮いていたと思う。
それでも小学校の時には友達の多い人だったので、全くのひとりというわけでもなかった。
それなりにいる友達の、ひとり。
そんな立ち位置だったはずだ。
最後に会った記憶があるのは、中学校の卒業式。
あのメッセージを見て私はどうしたんだろうか。
多分、何も変わらずに普通に接していたと思う。
高校は地元から遠く、寮に入ってしまったのもあって
暫くは旧友と会う機会などひとつも無かった。
それからは、数ヶ月くらいLINEでやり取りしたのを覚えている。
機種変更したときに、消えてしまったけど。
会話はどこまで続いたんだっけ。
私が終わらせてしまったんだろうか。
新生活が忙しくて、蔑ろにしてしまったかもしれない。
会いたい。
会って謝りたい。
忘れててごめん。
連絡しなくてごめん。
君はまだ生きているのかな。
一緒にゲームしようよ。
いまどこにいるの?
もう、会えないのかな。
…私に知る術はないけど。
最後まで変わらなかったあなたの笑顔は、
ずっと覚えているよ。
繊細な花、と言われてすぐにピンと来なかったので、
インターネットで調べてみた。
なるほど。
確かにレースのような花弁であったり、
細く美しい花弁であったり、
見事に繊細である。
自然が作り出す儚さと優雅さ、
それでいて生きているという力強さ。
花の美しさは一様ではなく、
沢山あるからこそ心惹かれるものがある。
…………などと書いてみたものの、
私の中には「大胆な花」という項目もない。
「赤い花」や「大きな花」、「夏の花」などと言われればすぐに「あぁ、あれとかね」と思い浮かぶものだが、
「繊細な花」は難しかった。
なんとなく、個人の感性に依存している気がする。
だからかもしれない。
私は自分の感性に従って答えを出す時に
いつも躊躇してしまう。
正解が分からないからこそ、自信が無い。
多数決では多数派にいるように努めたし、
自分の考えが必要な場面を極力避けて、
人間関係も中立を極めていた。
果たしてこんな臆病者で良いのだろうか。
折角の機会なんだし、今は自分の思ったことを書いておこうと思う。
「私は繊細な花と聞いて、昔育てた大菊を思い出した。」
来年の私はどうしているだろうか。
まだ大学に通っているのだろうか。
やっぱり上手くいかなくて、辞めてしまっているのだろうか。
実は今、悩んでいることがある。
2年前も私は大学3年生だった。
課題に追われ、友達もできず、段々と専門分野に興味を無くし、大学に通えなくなり、休学した。
休学中は趣味に力を入れた。
ずっとやりたかったイラストで小さな仕事をはじめた。
昔から絵を描くのが好きで、(美術部とかには入ったことは無いけど)好きなものをひたすら描いていた。
休学の直前にメディアデザイン系の学部にも転学部を考えていたが、3年生になってからでは遅すぎた。
休学中は楽しかった。
副業でイラストをやっている人と交流したり、お仕事をもらってお小遣い程度には稼いでいた。
けれどずっと続く訳では無い。
大学に戻るべきか、とても悩んだ。
イラストだけで食っていくのは到底無理。
アルバイトをしながらとしても、フリーターで居られる時間などそう長くない。いつかは安定した仕事につかなければならない。
イラスト業が実を結ばなかった時、私はきっと大学を卒業しておけば良かったと後悔するだろう。
周りからも「卒業だけでもしておいた方が良い」と後押しされ、私は1度挫折した分野に戻った。
母は、就職活動も無理にしなくていい。あと2年なんだから頑張りなさいと応援してくれた。
私は、頑張れると思っていた。
自分で決めた道、それに元々全く興味が無いわけではない。この分野だって、好きでやりたくて大学に入ったのだ。
そのはずなんだ。
そのはずなのに。
やっぱり上手くいかない。
そもそも周りはほとんど2つ年下だ。見た目ではそう判断つかないが、友達を作るのは難しい。
それだけで大学というのは難易度があがる。
2年も経てば以前学んだ内容もうろ覚えになり、予習復習の毎日。
もう、辞めてしまいたいと思う。
2年を経て自分は何も変われなかったと絶望するだけ。
苦しい。
それでも頑張って、半年は過ぎた。
まだ、半年だ。
4年生になれば楽になると誰しもが言っていたが、今の自分には何も信じられない。
それに、残りの地獄のような半年をどうやって乗り越えれば?
母にとっては半年なんてあっという間かもしれないが、私にとっては長すぎる。
逆に言えば、潔く辞めてバイトに注ぎ込み、やる気のある分野を伸ばしていく方がいいのでは?と悪魔も囁く。
いや、この思考が悪魔か天使かは誰にも分からない。
それに、ここまで来たんだからと踏ん張る私もいる。
あまりにもひ弱で全く支えられてないけれど、卒業できるなら私だってしたいと思っている。
真面目に通って課題も出して、その意思は伝わっているはずだ。
だから、悩んでいるのだ。
どちらの思考もあり、体もどちらの方向にも動く。
もう無理だと朝起き上がれない事もあれば、すごくやる気になって結果を出す時もある。
こうやってふらふらしたまま1年が経てば、気付いたら卒業してるかもしれないし、単位が足りなくって卒業できないまま追い出されているかもしれない。
考えたって分からない。
別に、特別どっちがいいとも思わない。
それなら悩んだままでも良いかと思う。
人生に目標を持てとか、将来設計を立てろとか言われるけれど、流れるままに、その時の気分で生きてもきっと問題ないのだ。
これは逃げかもしれない。
甘えかもしれない。
けれど、
人生ってそう頑張らなくていいのではないだろうか。
少し肩の力を抜いて、大きく息を吸って、ゆったりと、
風の吹く方へ。
のんびり生きていこうと思う。
子供の頃は良かった、と齢25に満たない人間が言うのはどうかと思うが、やはり考えてしまう。
子供の頃は考える事が少なくて良かった。
子供の頃は責任が無くて良かった。
子供の頃は時間が長く感じられて良かった。
子供の頃は未来を憂いていなくて良かった。
幾らでも浮かんでくる。
思い出というのは美化されてしまうものだけれど、
子供ならではの悩みも沢山あったはず。
責任が無いなりに、周りに迷惑をかけない振る舞いをしていたはず。
あっという間に過ぎてしまった時間もあったまず。
大人になるのが怖いと思ったはず。
そう考えると、少し安心する。
今がどれだけ苦しくても、未来の私ならきっと「良かった」って言ってくれる。
そうでなければ、私は今を生きられなくなってしまう。
希望の薄いこの世界で、私たちは未来に縋って生きている。
今の自分を、未来の自分が救ってくれると信じずにはいられないのだ。
日常、と言うのは。
どこからどこまでのことを言うのだろうか。日常でない部分と言えば、非日常になる。
では、いつもの通学路で猫を見掛けたとして。最初は確かに非日常かもしれない。しかし、それが毎日続けばいつしか日常になる。
気が付けば、勝手になっているのだ。変わっていることも知らずに、私たちは今あるものを日常と呼んでしまう。
不変的なように思えて、私たちの日常は今この瞬間も、変わり続けているのかもしれない。
認識の外で、捨ててしまったものがあるかもしれない。知らぬうちに入り込んでいるものがあるかもしれない。
苦しいことが当たり前になってしまっても、楽しいことに飽きてしまっても自分で気付く事は難しく、また、気付かぬ振りをせざるを得ない事もある。
なにかが1つ崩れてしまえば、その日は日常とは呼べなくなってしまう。そんな無意識の恐怖と、戦っているのだ。