私は受験を控えた高校三年生で、全日制の高校に通っている。私たちの学校では、大学受験本番が迫る中で呑気に六時間授業をするくらいなら自主的に受験勉強をした方が効率的であるということで、11月迄には通常授業が終わる。そして私たちもついこの前、例年通り最後の通常授業を受ける事になった。
それまでは「最後の通常授業」という響きに特別な雰囲気を感じていて、きっと当日はいつもより騒がしくなるだろうと思っていた。しかし、実際は今までと変わらない日常の一幕だった。最後であっても通常は通常なのだから、当然と言えば当然である。その光景に私は少し落胆しかけたが、それはむしろ最後に今までと同じような一日を過ごすことを許された感じもあって、少しばかり晴れやかな気分になった。
いつも通りに午前中の授業を終えて、最後の昼休みの時間に入る。以前のように同じクラスの友達と人数分の椅子を持ってきて1つの机の上で弁当を食べた。向かい合わせで受験に関する話や趣味の野球の話を喋る。コロナウイルスが猛威を奮っていた数年前には叶わなかった青春がここにはある。今こうして思い返すと嬉しさで胸が昂揚するようだ。
そうして皆で親が真心込めて作ってくれた弁当を美味しく食べていると、ある一人の友達が、弁当の中に小さな紙が折り畳んで入っていることに気付いた。それを開いてみると、文字が書いてある。その手紙は友達の母が書いたもののようだった。そしてそこには母から息子への感謝の気持ちが綴られていた。
「中高合わせて六年間、私の作ったお弁当を食べてくれてありがとう。」
友達はこれを読んでとても悔しがっていた。と言うのも、友達も母親に感謝の気持ちを伝えるサプライズを計画していた。それなのに、母親に先を越されたから悔しがっていたのだ。それから友達は、母に何をしよう、どういうお返しをしようと、もはや勉強など眼中に無い様子で、母にたくさんの感謝を伝える手立てについて考え込んでいた。
私はこれらの様子を見て、純真無垢な親子愛に感動させられた。より正確に言うと、こんな近くに透き通った物語が存在していたことに驚嘆した。
今までの私は実際に純粋な愛情や友情を見た経験が無かった。誰もがインターネットから膨大な情報を確保できる現代、私も例に漏れずTwitterなどから感動的な体験談などを読む機会はしばしばあったのだが、あくまでもそれはインターネットという外部のコミュニティに掲載されている「情報」に過ぎず、本当にこの世界にそれが存在しているのかどうかという確証は得られなかった。しかし今回、私は、最後の通常授業のタイミングで、人生で初めて、このような貴重な経験をしたのである。
齢十八で新たな経験を獲得した私は、また少し大人になった気がする。
陽射しをたっぷりと湛えた夏雲が浮かんだ青空をバックに
被っている麦わら帽子が風で飛んでいかないように庇を手で摘みながらこちらを振り向いて微笑する貴女という風景は
今もしばしば私の中でしつこく強迫的に想起されていく
クリスマスの過ごし方は毎年異なる。何故なら毎年暇だからだ。特に予定とかすべきことが無いので、適当に時間を費やしてこの日を乗り越えている。1人でゲームをすることもあれば、読書をした日もあった。すなわち外で澄んだ夜空を眺めた寒いクリスマスもあり、家族と何気ない雑談をして過ごした温かいクリスマスもあったということだ。学校が終わってもまだ心は余韻でそわそわしているのだが、この自由に過ごせる一日を過ごすと、一気に力が抜ける。私の中に平穏を呼んできてくれるから、共に過ごすパートナーが居なくても、私はこの日が大好きだ。
空から見る夜の東京の光る街並み、松島とバックに映る夕焼け、荘厳な東大寺の伽藍、一見どの美しさもあらゆる人間が理解し、それを共有できているように思える。しかし我々はそれぞれ違った価値意識を持ち、知識の多寡も異なる。故に見ている世界(対象)は同じでも、その認識(出力結果)に差が出てしまうのだ。
言語は常に主観性を排除して存在する。例えばとあるブログで絶景の感想を述べる際に「美しかった」と表現して、それにいいねが多く付く。つまりたくさんの人間に共感されたということだ。しかし彼らの「美しい」の質が全く同じであるという保証は一体どこにあるのか?
言葉の意味には客観性があり、我々はそれをなるべく自身の伝えたい認識に沿うように使うから、ある程度までは相手に伝わるかもしれない。しかしその言葉の客観性は思考の細かいニュアンスを切り捨てて紋切り型にする。これはもはや仕方のないことなのである。
そういう意味で我々には「私だけの世界」があり、言語という媒介を通してそれらを共有しているだけなのだと言える。つまり我々は「同じ世界に生き、同じようにそれを認識している」と錯覚しているだけなのだ。
今日は雲が多い。しかしところどころ隙間があって、そこから青空が見える。じっと眺めていると雲が横に動くのが分かるが、脳の知識がそれを即座に否定する。雲が動いているのではなく、地球が回っているのだ、と。
野暮なヤツだな、とその野暮なヤツの隣で思考する野暮な私であった。