空から見る夜の東京の光る街並み、松島とバックに映る夕焼け、荘厳な東大寺の伽藍、一見どの美しさもあらゆる人間が理解し、それを共有できているように思える。しかし我々はそれぞれ違った価値意識を持ち、知識の多寡も異なる。故に見ている世界(対象)は同じでも、その認識(出力結果)に差が出てしまうのだ。
言語は常に主観性を排除して存在する。例えばとあるブログで絶景の感想を述べる際に「美しかった」と表現して、それにいいねが多く付く。つまりたくさんの人間に共感されたということだ。しかし彼らの「美しい」の質が全く同じであるという保証は一体どこにあるのか?
言葉の意味には客観性があり、我々はそれをなるべく自身の伝えたい認識に沿うように使うから、ある程度までは相手に伝わるかもしれない。しかしその言葉の客観性は思考の細かいニュアンスを切り捨てて紋切り型にする。これはもはや仕方のないことなのである。
そういう意味で我々には「私だけの世界」があり、言語という媒介を通してそれらを共有しているだけなのだと言える。つまり我々は「同じ世界に生き、同じようにそれを認識している」と錯覚しているだけなのだ。
今日は雲が多い。しかしところどころ隙間があって、そこから青空が見える。じっと眺めていると雲が横に動くのが分かるが、脳の知識がそれを即座に否定する。雲が動いているのではなく、地球が回っているのだ、と。
野暮なヤツだな、とその野暮なヤツの隣で思考する野暮な私であった。
物心ついた時から七夕の夜には空を眺めることだけは欠かさなかった。何億光年という距離を経て縮小した星々が、箱から乱暴に抛り出したレゴブロックのように夜空に散らばっている。美しい。大人になった今でも感想は変わらない。と言うより、私は昔から何も変わっていない。この景色を額縁に収めて独り占め出来たらと、子供じみた発想が今でも頭の片隅に出てくるのが何よりの証左だ。そうすると、私の人生に区切りは無いのだと悟る。
溜め息を吐き、生温い外気が後に続く。夏のせいで赤みがかった頬は濡れ息は荒かった。エロティックな夢を見ているようだった。眠気でとろんとした目で視界には収まりようが無い広大な星空の一点をぼんやり見つつ過去を振り返っていると、刹那に空を流星が横切った。いつも通りお願い事を込めるのだが、子供の頃は誰よりもその時を楽しく過ごせていた自信があるのに、ここ最近は何も面白く感じない。まだ理屈も諒解できなかった時分は流れ星の非日常感が私の非現実的なお願い事にマッチして、「叶いそう」という期待に繋がっていた。そうして願いが叶う将来を想像するのが楽しかったから毎年七夕という日を待望していたのに、今やそれはただのルーチン作業と化していた。これまで続けてきたのだから今年も来年も同様にしよう、という陳腐な煩悩。形式的にでも願っておけば叶うだろう、というチープな信憑。
バイトの仕分け作業と何ら変わらなくなってしまったらしい、そう心の中で呟きやれやれと少し下を向いて足元の姿勢を直し、もう一度空を見る頃には自分が何なのか分からなくなっていた。少し考えるが、淫らな状況に酔っていた自分に思考の違和感を取り除く余力はない。そんな私はよろよろと、帰宅の途についた。
愛と平和は常に結び付いている訳ではない。例えば私は彼のことが嫌いで、同様に彼も私のことを嫌悪しているけれども、面倒事に発展するリスクから直接的な危害を加えたくない・加えられたくないので距離を置こうといった考えが二人の頭の中で生起し、その結果暫定的な平和が生じる。このように世界には愛を前提としない、寧ろ嫌悪を前提として成立する平和が存在していて、それは身近なところでも容易に観測が可能である。