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空から見る夜の東京の光る街並み、松島とバックに映る夕焼け、荘厳な東大寺の伽藍、一見どの美しさもあらゆる人間が理解し、それを共有できているように思える。しかし我々はそれぞれ違った価値意識を持ち、知識の多寡も異なる。故に見ている世界(対象)は同じでも、その認識(出力結果)に差が出てしまうのだ。

言語は常に主観性を排除して存在する。例えばとあるブログで絶景の感想を述べる際に「美しかった」と表現して、それにいいねが多く付く。つまりたくさんの人間に共感されたということだ。しかし彼らの「美しい」の質が全く同じであるという保証は一体どこにあるのか?

言葉の意味には客観性があり、我々はそれをなるべく自身の伝えたい認識に沿うように使うから、ある程度までは相手に伝わるかもしれない。しかしその言葉の客観性は思考の細かいニュアンスを切り捨てて紋切り型にする。これはもはや仕方のないことなのである。

そういう意味で我々には「私だけの世界」があり、言語という媒介を通してそれらを共有しているだけなのだと言える。つまり我々は「同じ世界に生き、同じようにそれを認識している」と錯覚しているだけなのだ。

7/19/2024, 9:02:07 AM