お天頭さまがみんな見ている…
おばあちゃんが良く小さい私に言ってたこと。
前後に何を言われてこの言葉が言われたのは
あまり覚えていないが、多分、私が誤魔化したり、嘘をついたりしたときだったんじゃないかと思う。
「みんなお天頭さんが見てるから」
おばあちゃんの抑止力の言葉なんだろうか…
良いこと、正しい事をして褒められる機会がなかったときも同じように言われてたように思う。
幼い私は褒められて嬉しくなるのを知っているから…
若い頃、一生懸命して、営業手数料が私の方が良くても、私より成績がわずか悪い、男子が表彰された時、母の前で泣いた。
そのときも「お天頭さまが見てる」と言った。
太陽の下で…どれだけの不幸と誤魔化しと嘘を暴かれるんだろう、
太陽の光のもとでは全て手暗がりになってしまうのに。
11月22日は「いい夫婦」の日となったのはいつからなのだろう。日本人は殊の外、日付に理由をつけるのが好きなんだと思う。理由やイベントを引っ付けて行き過ぎる日に対して、個々の生きていく達成感を感じ取らざるを得ないように習慣付けることが好きなのか、あるいはそういった理由やイベントで個々に圧力を与えるのが好きなのか、いや、与えられる事喜びを感じるのか。
或種、マゾヒスティックな感覚を持ち得る人達が多いのか…
夫婦とは成り立ての人達が思うものと数十年一緒に暮らした人達とは感じ方が違うものである。
結婚した時ういういしさは次第と霞んでいき、空気のような存在であるとお互い感じるものである。
小生は後者である。
居ても、居なくても同じかもしれない。でも居ないことが続くと、その空気に枯渇感が溢れて、
その枯渇感から無に移行する前に水分を欲する様に
涙腺が緩むのではないだろうか。
決して寂しいと言うことでなくただ、泪が出るんだと思う。
ういういしかった頃の事が脳裏をよぎり、気づけば泪が流れる。
枯渇していたのは空気だけでなく、
その時に心も乾いていたと気づくのだ。
夫婦を片方が居なくなるまで続くとき
夫婦だからわかる感触である。
違うかな。
猫はどの位置まで見えるのだろうかと思う。
人間と同じ視力があるのかと勘違いしてしまう。
猫を見つけてじっと見ていると、猫も同じようにこちらを見据える。距離としてかなり離れているのに。
何を警戒してるんだろう。
犬はじっと見つめることはしない。
じっと見るとたまに、吠えるだけで、あとは知らん顔。
猫は猫の世界があるんだろうか…
人間に見つめられることで警戒するような
世界が…
あんなに暑かったのに、漫画の吹き出しにかかれている秋と感じる「そよそよ」っていう風は
3日くらい。
あとは朝晩寒い。
極端だ。
秋にいろいろ感じるであろう「秋風」というシチュエーションはいつ頃から感じなくなったんだろう。
また会いましょう…
この言葉、生きている間に何度、音にして伝えているんだろうか。
大勢の人の前でなのか、親しい友人や得意先なのか。
感謝を込めてなのか、また会いたいと本当に思ってなのか、リップサービスからなのか。
今の私はリップサービスに他ならないと自負している。「また会いましょう」の言葉を額面どおり確認できず、次会う場合、相手が自分にたいして「また会いましょう」という言葉のとおりにしないで「会わない選択」をすれば良かったと思わせる恐怖があるからかもしれない。反対に自分が相手に対してそう思うのではないかと思ってしまう。
素直に会う事ができない、どうしても力んで「またあいましょう」イベントに対して考えるだけで体力を消耗してしまう。まだ会っていないのに、次会うことに憂鬱になる。
リップサービスですよと「また会いましょう」イベントに全力でパワーを吹き込む。
二度と会わずに済むように…
自分は寂しい人間だな…