きっと誰よりもずっと、僕はこの世界を理解している。
この世界は、わからないことだらけだということ。
この世界において、僕はちっぽけな思考体にすぎないのだということ。
この世界は、僕の主観でしかないということ。
ボルツマンの脳や、シミュレーション仮説、ブロック宇宙論なんてものがあるけれど、あれも所詮、どれも机上の空論にすぎないわけで。
机の上で、そんなにも思考で遊べる人間は、よっぽど生命として成功しているのだな、とも思うけれども、
どんな崇高な知識があったって、この世界を僕のものにするにはまだまだ足りない。
僕らは主観を越えられない。
僕らは完全なる客観はできない。
ならば、僕が僕の世界を信じることに、一体何の不都合があるというのだろう。
僕の世界ときみの世界は、必ずしも同一とは限らない。
たとえ供述が同じでも、その対象が一緒かなんて誰にもわからない。
この世界において、僕らは孤独であるとも言えるだろう。
例えばきみが、僕が、本当に同じ人間かどうかもわからない。ただ、片方の真似をしているだけのロボットかもしれない。もしくは、どちらも自分をヒトだと思い込んでいるだけだったりして。
僕らはこの世界において、皆孤独であると言えよう。
寂しいことだろう。
切ないことだろう。
しかし、孤独だからこそ、僕らは僕らであれるのだ。
この世界を世界たらしめているのは、僕らでしかないのだから。
これからも、ずっと。
悩み続けられたのならば、それはどんなに幸いだろうか。
幾度も悩み、学び、動き、そしてまた悩み。
そんな繰り返しのできるこの人生は、
ゴールのないこの道のりは、
なんて面白いのだろうかと。
神さま、この悩める子羊を救う必要なんて微塵もない。
だからどうか永遠に、このちっぽけな脳と対話をさせてはくれないか。
War d a s das Leben? Wohlan! Noch Ein Mal!
(これが人生か、ならばもう一度!)
たとえこの人生でなくともいい。
しかし、どうかこれだけは。
ああ神さま、どうか来世でもまた、このヒトという馬鹿馬鹿しい種として、物語る動物として、生を授けさせてはくれないか!
沈む夕日とは言うが、昇る夕日があったっていいだろうな。この夕日は、朝日と続いているのだから。
『星空の下で』
すっかり暗がりに目が慣れて、雲すらも寝静まった夜のこと。
南の窓から枕元へ、まるで月から舞降った砂のような、淡い一条の灰汁色の薄光が差し込んでいた。
布団に纏わせていたはずのベルガモットの香りは、もう肺腑に溶け去ったようで。
すでに枕にも体温が染み込み、もはや部屋には、己が他者と繋がっている証拠なんか、ひとつたりとも見えなかった。
布団からのそりと上半身を起こし、そっとその砂に腕を伸ばす。
なんてことない。少し、触れてみたいと思った。それだけだった。
触れぬ指先。
しんと、つやりと。
床板の冷たさだけが、骨を通り、脊椎へと返ってきた。
切なかった。
ぬくもりのひとつも得られぬその指先に、ひとりなのだと痛感した。
生まれてこの方色恋もなく、ほどほどに歩んできた我が旅路が、ふわりと思い浮かばれた。
愛されたい、と。
口から零れると聞いていたその言葉は、どうやら喉を通り過ぎ、目頭へと渡っていったようで。こんなになってしまっては、余計苦しくなるだろうと笑ってしまう。
お前のせいだとでも言うように、床に溢れた光の粒を辿り、その砂々の主を見遣る。
少し肌寒い夜の中、暗い碧色の空に浮かぶ、まばゆく、丸い月。
幾千年と変わらぬその月が、憎たらしく、疎ましいと同時に、そのあまりの美しさに、ふと救われるような心地にもなる。
ああ、この月はきっとこうやって、数多の想いを吸い取ってきたから、美しいんだな。
ため息をこぼしながら、ぽすりと布団に倒れる。
冷えた枕が、なぜだか心地よかった。
つめたい身体をあたためようと布団を被る。
ほんのり物足りぬその重みと共に、眠気が脳に纏わりつく。
屋根が、軋みを口遊んでいる。
もし、未だ知らぬ運命の相手が。今この瞬間も、この砂を浴び、同じ星空の下で呼吸をしているというのならば。
独り寂しいこの夜に、小さく凍える心臓に。
あの月が、その薄らあかるい月光を。
せめて数瓱でも、この重みの足しになるように。
そっと、かぶせてはくれないだろうか。
これはプロローグだろうか、エピローグだろうか。
枕カバーのズレ、そこに残された数本の髪。
赤褐色の斑点に彩られたティッシュ。
数日前の飲みかけが残るコップ。
去年の夏から網戸にこびりついたままの、粉っぽくなった鳥の糞。
くしゃくしゃに積み重なった、かつてのプリント類。
クローゼットの奥に押し込まれた、初めての作文の賞状。
晴れと曇りの中間。
部屋に差し込む光は、いつもより薄暗い。
なのに、空はあまりにも白く、眩しかった。
いつからか開かなくなった本の天には、うっすらと埃が重なっていて。
いつからか会わなくなった友との履歴には、「今日はありがとう!また誘ってください!」という自分の言葉に、既読だけが添えられたままだった。
ここにいるのは、あの日と同じ自分のはずなのに。
こうなってしまったのは、すべて己の落ち度だろうか。
――いや、もうそれでいい。
それでいいんだ。