目に見えない心というものを、何故か全ての人が信じている。
みんなどうして目に見えない、本当にあるかどうかも分からないものを信じられるんだろう?
心無い言葉、という表現がある。
「お前なんか嫌いだ」
「バーカ」
「うっざ」
「鈍くせえ」
こういう言葉を〝心無い言葉〟と言うけれど、そこにも確かに心はあって、相手を拒絶したい、相手を攻撃したい、という感情もある意味〝心〟なのだろう。
本当に心が無い、というのは相手が何をしようが何とも思わない、相手がどうなろうがどうでもいい、そういう事を言うのだと思う。
攻撃的な感情も、心だ。
感情と心は厳密には違うらしいけれど、目に見えないという共通点もある。
どちらも相手の〝本当のところ〟は分からなくて、「多分こうなんだろう」と思いながら互いに窺うようにして近付いたり離れたりしている。
心と心。
感情と感情。
近付いたり離れたり、ぶつかったり反発しあったり。
あれ? 何かに似てる。
あ、分かった。
磁石だ。
END
「心と心」
何でもないフリ。
何でもないフリをしないと生きるのが倍キツくなる。
いちいち気にして、深刻になっていたら周りからドン引きされる。
そうなったら自分も相手も面倒くさくなって、やがて距離をとってしまう。
でも本当は。
苦しかったり腹が立ったり、許せなかったりムカついたり。何でもないワケないんだよ。
END
「何でもないフリ」
この言葉の嘘臭さと薄ら寒さ。
自分達とそれ以外を線引きする、ある意味冷たい言葉。
「だったら君も仲間になればいい」
違うだろ。
そうやって徒党を組んで、線引きをして、排除する自分達を正当化する感じが嫌なのだ。
スポーツだとか、音楽だとか、息を合わせなきゃいけないものなら分かる。
けれど社会生活は必ずしも「仲間」である必要は無い。なのに何でもかんでも「仲間」という真実味の無い言葉でくくろうとする。
少なくとも私にとって、そんな言葉は漫画の中だけで充分だ。
END
「仲間」
祭りという非日常な時間と空間がある理由が、なんとなく分かった。
着馴れぬ浴衣や、見慣れぬ屋台。普段は静かな神域が飾り布で彩られ、笛や太鼓、鈴の賑やかな音が鳴る。
すれ違う人は皆、どこか浮かれた表情をしている。
そして誰も――他人の事なんか見ていない。
「·····」
だから自然に、どちらからともなく指先が触れ、それを合図に互いに指を絡ませた。
雑踏の中を少し足早に歩く。
繋いだ手から互いの温度が伝わって、一つになったような気がする。
誰も――自分達の事なんか見ていない。
この非日常の時間と空間は、この為にあるのかもしれないと、ふと思う。
薄暗がりの中、互いの存在だけが明確で。
長い参道をこのまま手を繋いで歩き続けていれば、やがて繋がったまま一つの生き物になれるのではないかと、そんなありもしない妄想にかられた。
END
「手を繋いで」
ありがとうとごめんねを、ちゃんと言える人間になりたい。
昔、「何に対しての〝ありがとう〟なの?」と聞かれた事がある。ドキリとした。
ただの社交辞令として、ただ会話を締める為の決まり文句として、無意識に使っていた「ありがとうございます」。それを、見透かされた。
考え過ぎなのかもしれない。
でも、私自身そう思う事が時々あった。
「ありがとう」と「ごめんね」。
これをただの決まり文句として、「こう言っておけば取り敢えず大丈夫だろう」という意識で使っている相手は、すぐに分かるからだ。
何に感謝したいのか。
何を謝りたいのか。
それを間違えず伝えられる人間になりたい。
END
「ありがとう、ごめんね」