「行かないで」
そう叫べたら良かったのだろう。
もっと幼い子供の頃に。
そう叫んで、他人の目など気にする事なく泣き喚いて、子供なりに〝譲れないもの〟があるのだと、思い知らせていれば良かった。
置いていかれること、意志を黙殺されること、背を向けられることが怖いのだと、力の限りに叫べば良かった。
「〝聞き分けのいい〟子供だったからな、私は」
そう言って、皮肉げに唇の端をつり上げる。
グラスにはまだ半分ほどワインが残っていたが、何故か飲む気にはなれなかった。
テーブルに置いた手に、ひやりとした手が重なる。
指をなぞる手の感触がくすぐったくて逃れると、手はまたすぐに追ってきた。
「言っていいよ」
「――」
「何が欲しいのか、何が怖いのか。全部私に教えて欲しい」
「·····もう子供じゃない」
「関係ないよ。私はもっと、あなたの事が知りたい」
「·····」
「なんだってしてあげるよ」
再び重なる手のひらに、わずかに力がこもる。
その強さが心地よいと感じてしまうほどに、絆されている自分が何だかおかしくて、私はさっきとは違う笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
END
「行かないで」
この言葉は本当は正確ではない。
上へ上へと行けば青い空は無くなり真っ暗な宇宙になるし、水平に進めば青い空じゃなく朝日の白や金、夕焼けのオレンジや星と月の輝く夜になっていたりする。それでも明確な境い目なんてものは無くて、いつの間にか空が宙になっていて、青空は朝日や夕焼けや夜空になっている。
〝宇宙の宙〟を〝ソラ〟と読むのはなんか素敵だ。
私達が見上げる空が、果てしなく続く星の海と繋がっているのだと思わせてくれる。
この星のあらゆる場所がソラで繋がっているように、この星とあらゆる宇宙もソラで繋がっている。
「どこまでも続く青い空」は正確では無いけれど、心情的には〝正しい〟と思う。
繋がっているソラのどこかは、澄み渡るような青空だから。
END
「どこまでも続く青い空」
毎年毎年何で着なくなったのか分からない服が出てくるのは何故だろう(笑)?
それにしても、こうも気候が変動して日ごとに暑くなったり寒くなったりすると、〝衣替え〟なんて行事みたいにやる必要が無くなってる気がする。
大きな家のウォークインクローゼットみたいに、オールシーズン服を下げておけるスペースがあればなぁ。
END
「衣替え」
ライブで歓声を上げる。
カラオケで熱唱する。
譲れない何かの為に怒りの声を上げる。
戦う誰かを応援する。
恐怖に駆られて叫ぶ。
私にはどれも縁が無い。というか、どうもそういう事をしたいという衝動が起きない。
応援上映とか、絶叫上映というものにも興味がわかない。そういえば、ジェットコースターに乗っても「楽しい!」「怖い!」「気持ちいい!」と思ってはいても言葉は出なかった。
変に引きつった声を上げていただけだから、傍から見たら奇異に映っただろう。
喜びや、楽しさや、怒りや、恐怖。
感情は確かにあるのに、それを発する言葉が、声が出ない。
声が枯れるまで、心のままに叫ぶ事が出来る人が、少し羨ましい。
END
「声が枯れるまで」
雨、という歌があった気がする。
でも本当は始まりなんて、全てが終わった後でないと何が始まりで、何が始まったのかなんて分からないと思う。結局やり直しが出来ないところまで進んで初めて、人は何かが始まっていたこと、そして終わりがやってくることを知るのだ。
END
「始まりはいつも」