いつ降るかいつ降るかと人々をハラハラさせた空は夕方過ぎについに降り出し、夜には土砂降りになった。
男の花屋にも屋根を借りに来る者が入れ替わり立ち代り訪れていたが、この街で花を買う者はそう多くない。店主である男と目が合うと気まずそうに立ち去る者がほとんどで、取り繕うような笑みと共に思い付きで花の一輪でも買ってくれればいい方だった。
そんな平日の夜。
そろそろ閉店作業を始めようと、最後の雨宿り客を笑顔で追い出した頃だった。
「·····あれ」
一人の男が足早に近付いてくる。彼は雨から逃れるように店まで来ると、屋根の下で髪から垂れてくる雫を指で拭った。
男の髪も、肩も、服も全身雨に濡れている。だがその表情に不快さや疲労感は見えない。彼はそこが花屋だと気付くと店内に目を転じ、吟味するように花の一つ一つを見て回り始めた。
その背が実に楽しげで、店主の男は思わず閉店作業の手を止めてしまう。
彼はしばらく無言で店の中を歩いていたが、ガラスケースの中の白い花に気付くと立ち止まり、やがてふわりと微笑んだ。
「――」
その横顔は、男の胸にさざ波を呼び起こす。
「そろそろ閉店なんだけど·····その花、包もうか?」
声を掛けると、男は色素の薄い瞳を数度瞬かせた。
「·····あぁ、そうだね。お願いしようかな。出来れば全部欲しいんだけど·····いいかな?」
「勿論いいとも」
白い花を手際よく包む。――あぁ、そうだ。彼女は白い花のようなひとだった。本当に·····〝キミ〟はよく覚えている。
包んだ花を手渡した瞬間、不意に指が触れた。
「綺麗だ。ありがとう」
「いえいえ。それ、綺麗だけど何故か人気が無くてね。キミに見つけて貰えてきっと花も喜んでるよ」
「·····どこかで会ったことが?」
「ん? いや、気のせいだよ。·····うん、きっとね」
「それにしても、こんなところに花屋があるなんて気付かなかったな。また寄らせて貰うかも」
「いつでも歓迎するよ。今度は晴れの日にでも」
「ありがとう。·····あぁ、雨が上がった」
男の声に視線を上げる。
雲の切れ間から、丸い月が顔を覗かせていた。
END
「雨に佇む」
ロクに続いた事が無い。
海外小説に出てくるような鍵のついた日記も、学校の友達と交換しようねと言って買った日記も、読書記録をつけようと思って買った文庫サイズの日記も、全部最初の数ページで終わった。
「日記」そのものが私に合わないのかもしれない。
·····違うな。多分、自分の字が好きになれないから読み返すのが嫌になって、書く気が失せてしまうんだ。
だって、このアプリや他の読書記録アプリは続いてるから。
やっぱり綺麗な字って憧れるなぁ。
END
「私の日記帳」
アクリル板があった時の方が気兼ね無く座れた気がする。あの時どこの飲食店でも見掛けたアクリル板、どこに行ったんだろう??
END
「向かい合わせ」
コロナに罹患した。
前より酷い症状だった。職場が病院だから休むしかなく、家から出られない日々が始まった。
何より申し訳ないのは同じ職場の親身になって相談に乗ってくれた上司と、母。
母は来月同窓会に行く予定だ。移さないように細心の注意を払っているけど、まだ心配。早く症状が無くなって、仕事に戻りたい。
こういう状況になって初めて、人は健康であることの幸せや仕事が出来ることの喜びを噛み締めるのだとしみじみ思う。
自宅待機で時間はたくさんあっても、読書も、ゲームも一日中は出来ない。その時間、多くの人が働いている事を知っているから、私の代わりに誰かが働いていてくれる事を知っているから。
このもどかしさとか、申し訳なさとか、悔しいとか、そういう色々な気持ちを整理出来ない状態を「やるせない」というのだろう。
END
「やるせない気持ち」
海なし県で育ったから海に妙に惹かれる時がある。
でも水着着て浮き輪持って入りたい、っていう気持ちじゃなくて波打ち際を足だけ濡らして歩きたいとか、テトラポットのある岸壁で出入りする船を見たいとか、少し先にある灯台の明かりを見たいとか、そんな気持ち。
END
「海へ」