近所のお宮さんでやってたお祭りは、万引き事案があったというので廃止になった。
小学校のグラウンドでやってた盆踊りは学年が上がるにつれて自分の方が疎遠になった。
市内でやる一番大きなお祭りも、子供会の人数が少なすぎて神輿を担ぐことも無かったし学校で何か出し物をして参加するなんてことも無かった。
ただ道路の規制と渋滞の告知だけが来て、疎外感を覚えた記憶だけがある。
屋台、お神輿、盆踊りのBGM。
お祭りというのはだから、なんとなく自分には縁が無いものだと思っていた。
りんご飴、わたがし、ハリケーンポテト、かき氷。
食べたのはもう十何年も前のことだ。
今年の秋、ふらっと寄ってみようか。
END
「お祭り」
いつか報われる。いつか幸せになれる。
いつか逆転できる。いつか見返してやれる。
いつか王子様か神様が現れて、こう言うのだ。
「今までよく頑張ったね。あなたは救われる」
いつか、いつか、いつか――。
「君達って本当に自分に都合のいい方に物事を受け取るよね」
男にも女にも見えるその人は、絵画のように美しい笑顔でそう言った。
「いつか報われる、だって?」
だってそうでしょう? 今までの苦労も、理不尽な暴力も今日この日、救われるためにあったのだ。
「幸せになれる、だって?」
だってそうでしょう。あなた、神様なんでしょう?
そう言うと、男はさも楽しそうに肩を揺らして笑う。楽しげに細められた目には、僅かにからかいの色が滲んでいた。
「君、自分が救われるに値すると本気で思ってる?」
「――え?」
「憎んで妬んで嫉妬して。相手より上に行かなきゃ気が済まない君達を、私がこのままにしておくわけないだろう」
その手には大きな鎌が握られている。
「救いは無いよ」
冷たい声と共に鎌が大きく振り上げられる。
――そりゃそうか。
生まれてこのかた、ラクして逃げることしか考えてなかったもんなぁ。
神様はお見通し、ってわけだ。
END
「神様が舞い降りてきて、こう言った
「あなたの為を思って」
「人のためになりたい」
それは結局自分のためにそうしているんじゃないかと思う。
「あなたの為を思って」苦言を呈する自分は偉い。
「人のためになりたい」のは、自分が他人に迷惑をかけていたり、立派な人になんとなく後ろめたさや劣等感を感じているから。
少なくとも私はそう思っている。
綺麗事なんだろう。
でもその、綺麗事すら無かったらこの世界は本当の地獄になってしまう気がする。
『やらない善よりやる偽善』という言葉があるけど(元が何なのかは知らない)、受け手がそれを善だと受け取って、結果が良ければそれでいいと私は思う。
END
「誰かのためになるならば」
鳥かごを用意しよう。
·····いや、かごでは小さ過ぎるな。檻がいい。
広げた羽根が美しい孔雀。
猛スピードで降下して獲物を捕らえるハヤブサ。
優美なダンスと美しい声で誘うフウチョウ。
彼にはそんな、大きな鳥のような美しさがある。
鑑賞に耐えうる存在だよ、彼は。
手元に置きたいと思う者が多いのも頷ける。
かくいう私もその一人。
いやいや、枷や鎖で繋いではいけない。
彼は歩く姿も鑑賞に値するからね。
じゃあどうするか。
糸を張り巡らせるんだ。彼が自ら私の手元にやって来るように。そしてそこから二度と飛び立とうなどと思わないように。
小さな鳥かごでは彼の美しさを堪能出来ない。
檻に誘い込んで、慣らして、私にだけその姿を見せてくれるようにする·····あぁ、楽しいね。
そんな事が出来るのかって?
まぁ、楽しみにしていたまえ。
今度君が来る頃には、彼はもう私の手の内だ。
そしてその見えない檻の扉は、空いたままだと思うよ。あぁ、そうだ。彼の部屋に空の鳥かごでも置こうか?
END
「鳥かご」
ちょっと前に見たテレビのナレーションに気になる表現があった。確か、ドラマか映画のあらすじを説明してたと思う。
『恋よりも友情を重んじてしまう〇〇が·····』
ん? ってなった。
〝しまう〟ってなんだ。
恋よりも友情を重んじたら駄目なのか。
というか、恋と友情は比較するものじゃないだろう。
どちらも生きていくのに大切で、恋人が出来たって友人はずっと友人だし、恋人の為に全てを捨てるなんていうのは、現実的じゃない。
なのにテレビでも何でも、恋>友情の図式がさも正しいことのように持て囃される。
この、多様性の時代に。
多様性の時代という表現もあまり好きじゃないけど、もっと色んな関係性があっていいのにと思う。
END
「友情」