梅の実が熟す頃に降る雨だから「梅雨」。
春に猟期を迎えるから「鰆」。
冬まで日持ちするから「冬瓜」。
秋にとれる刀のような形をした魚だから「秋刀魚」。
気候が変わって、環境が変わって、旬も変わって、食べ物も変わって·····、百年後の人達にこれらの言葉は果たして通じるのだろうか?
END
「梅雨」
「無垢」――純真で汚れの無いこと。
「そんな人間いるのかな?」
「少なくとも俺らじゃねーな」
「分かってるよ」
「生まれたばっかの赤ちゃんならともかく、大きくなるにつれて汚れてくのが人間だからな」
「じゃあ無垢な奴は人間じゃねーじゃん」
「妖精だ、妖精」
「ってか、そういう奴は極端に生きにくいか、逆に人生を謳歌してるかのどっちかだろうな」
「どゆこと?」
「そういう奴って、人の悪意にも気付かないんじゃないじゃねーの?」
「ああ。うーん、どうなんだろな?」
「ま、俺らみたいな汚れきった人間とは違うんじゃねーかな?」
何も描かれていない真っ白なキャンバスは、それだけではただのキャンバスで。
色が乗り、白でなくなる事で初めて意味が生まれる。
真っ白であること。何かに染まり、白でなくなること。
どっちがいいとかどっちが悪いとか、比べる事じゃないんだろうな。
END
「無垢」
旅に終わりが無かったら、それは旅とは違う別の何かになっている気がする。
私の中で旅というのは、元いた場所に帰る前提のものだから。観光でも仕事でも、何が目的だったとしても旅というのはいつか帰って「やっぱり家が一番落ち着く」と安心するものだと思うから。
それに、元いた場所にいる大切な誰かにお土産を渡したり思い出を話したり、そういう事を含めての旅だと思うから。
もし、比喩などでなく本当に〝終わりなき旅〟があるのだとしたら、それは私にとっては辛く苦しい、試練のようなものなんじゃないかな。
END
「終わりなき旅」
ごめんね。
ウェディングドレス姿を見せられなくて。
ごめんね。
孫の顔を見せられなくて。
ごめんね。
お父さんやお母さんと同年代の人達が〝普通に〟感じているであろう「親の幸せ」を感じさせてあげられなくて。
私は私の選択や、私自身の価値観や生き方を否定する気は無いけれど、この世でただ二人、両親にはほんの少しの後ろめたさを抱えている。
それでも私をやめられないから、こうして「ごめんね」と心の中で謝り続けるしかないのだ。
END
「ごめんね」
夏服の袖口から伸びる腕が好きだ。
ぴっちりしたシャツより少しゆとりのあるのがいい。
シャツと腕の隙間に漂う涼やかな感じとか、薄い綿や麻の生地の、さらっとしてそうな質感が妙に好きだ。
照りつける太陽などものともせず、涼しい顔をして街を歩く若者たちの足取りを見ると、怖いもの知らずの強さを感じる。
なんてことを考えてしまうのは、私がきっと歳をとったからなのだろう。暑さにはもう屈服するしかなく、軽やかな半袖シャツなどを着て夏を謳歌するなど出来なくなってしまった。
通り過ぎた季節というのは、いつでも眩しく見えるものなのだ。
END
「半袖」