「おねーさん、こんな夜中にどこ行くの?」
トレンチコートを着た長い髪の女が佇んでいる。その傍らにはおかっぱ頭の女の子。
「·····私?」
「おねーさんしかいないじゃん」
女が振り返る。大きなマスクで口元を隠した女は、声の主を探して視線を下げた。
「なんだアンタか」
「久しぶりなのにひでー言い草」
人の顔をした犬はそう言って女を見上げる。
犬はみるみる伸び上がり、女とそう変わらない背丈の男の姿になった。膝の辺りまで隠れる、血のような真っ赤なマントを羽織っている。
「で、マジでどこに行くの? 貴女の時間はもうちょっと早い〝夕暮れ時〟だった筈でしょ?」
女はしばらく夜空を見上げ、ポツリと呟いた。
「そろそろ潮時かなと思って」
「みんなスマホに夢中で少し前の暗がりに誰がいるかなんて気にも留めない。見知らぬ人に声を掛ければ不審者扱い、おまけに夏にトレンチコート着てようが、ワンピース着てようが構いやしない」
女はいつの間にか白い帽子に白いワンピース姿になった。背丈も男より遥かに高くなっている。
「ぽっ」
「トイレだってそうだよ」
おかっぱ頭の女の子が声を上げた。
「センサーで電気がつくから綺麗で明るいトイレになって、私が隠れられるところなんか無くなっちゃった」
白いブラウス姿だった女の子は、真っ赤なベストを羽織っている。この姿なら「ちゃんちゃんこ」と言うべきだろう。
「まあねえ·····」
男は答えて、羽織っていたマントをばさりと翻した。
「イマドキ〝赤マント〟なんて怖がられるどころか〝ぶっ飛んだファッションセンスの人〟で済んじゃうからなぁ」
「私達の居場所はもう本の中だけになるかもね」
「ほっといてくれよ」
犬の姿に戻った男が呟く。
「昔は俺の専売特許だったんだけどなぁ·····」
「アンタも身の振り方考えた方がいいよ」
トレンチコートに戻った女が見下ろしながら呟いた。
「あ、みんなでタクシー乗る?」
「タクシーも今はドライブレコーダーでみんな録画されてるよ」
「ダメかぁ」
「·····ところで、なんで付いてくるの?」
「いいじゃん、みんなで行こうよ」
女と、女の子と、犬。
真夜中にそぞろ歩く二人と一匹。
彼等がどこに行ったのか、誰も知らない。
END
「真夜中」
本当に何でもした人を、一人知っています。
彼は静かにそう切り出しました。
本当に何でもしていた。
罪人と間違えられるような事でも躊躇なくして、愛する人を救い出していました。
愛する人に笑って貰う為に、道化のような真似もしていた。
はたから見れば愚かとしか言えませんでしたよ。
だって〝叶わぬ恋〟だったんですから。
それでも·····いえ、それなのに、と言うべきでしょうか。彼の清廉さは一欠片も失われていなかった。
怖かったのです。
私は·····いえ、私達は。
愛に狂っているかと思えば清廉で、冷静沈着かと思えば情熱的で。そんな、相反する在り方を同時に内包出来る彼という人間が·····怖かった。
ずっと傍にいたのに、ね。
そう言って笑った彼の目が、ここではないどこか遠くを見ているような色を滲ませていたのは、気のせいではないと思いました。
END
「愛があれば何でもできる?」
月末になると大体感じる。
「あの時追加でデザート頼むんじゃなかった」とか、「夕飯のおかずのグレードを上げなきゃよかった」とか、「可愛いからって百均でシールの衝動買いなんかしなきゃよかった」とか。
毎回毎回、カツカツになると後悔する。
〝働けど働けど我が暮らし楽にならざり〟は真実なんだよなぁ。
END
「後悔」
眼下に広がるのは美しい緑の森などではなく、石造りの建物が点在する砂の海。その建物も無残な砲撃の跡が残り、砂漠も本来は美しい風紋が大きく乱れている。
ほんの少しの感傷が胸をちくりと刺す。
バラバラという回転翼の音と胸の痛みをかき消したのは、無線越しに聞こえる男の声だった。
「――聞こえますか?」
「あぁ、聞こえるよ」
柔らかな声。晴れた空を渡る風のようだと思う。
「間も無く降下地点です。着地点から見て二時方向に目標の建物があります。その地下に人質の女性一人と二人の子供がいます」
「了解」
「あなたのことだから大丈夫だと思いますが」
「あぁ、勿論だ。私がなんと呼ばれているか、君が一番よく知ってるじゃないか」
小さく笑う。きっと彼は今頃、唇を尖らせているだろう。
「本当は任務なんかじゃなくて君と空を飛びたいんだけどね」
「·····私もです」
無線越しの声が僅かに湿度を増す。
彼は数年前の任務で事故に会い、右足を失った。今は私を誘導する優秀なナビゲーターとして地上で活躍している。
それでも空を忘れられない彼は、休暇になると私とタンデムジャンプに向かう。風に身をまかせ飛び立つ瞬間、彼はこの世のものとは思えないほど美しい笑みを見せる。
長期化した戦争で、彼の顔を直接見たのはもう三年前の事だ。
「君に会いたい」
「私もです」
私はどんどん前線へ。彼は後方からそれを追うばかり。無線越しの声は互いの距離を離しはしないが縮めもしない。
「終わらせるよ」
そろそろ限界だった。
「――どうかご無事で。最強の騎士サマ」
ハッチが開いて、回転翼の音と風の音が戻ってくる。
眼下に広がる砂の海に向けて、私は足を踏み出した。
END
「風に身をまかせ」
「付き合おっか」「うん」
こんな簡単な会話で始まった関係は
「結婚する?」「そうだね」
こんな簡単な会話で変わった。
ミステリーとゲームが好きで、意気投合した私と彼。
結婚して出来た新居は、彼の書斎がやたら広かった。
彼の書斎は私も子供も入室禁止で、コレクションが整然と並んでいる。
私の方は大好きなミステリーもゲームソフトも実家に置いてくるしか無くて、一冊だけ手元に残した大好きな作家のデビュー作の表紙には娘がクレヨンで描いた大きな猫が描かれている。
「·····こんな筈じゃなかったのにな」
小さく呟く。隣で絵本を読んでいた娘が不思議そうに私を見上げている。
今夜も彼は大好きなミステリーをテーマにしたバーで酒を飲んでいるのだろう。
――結婚する前は一緒に行っていたバーで。
「·····こんな筈じゃなかった」
娘の髪をそっと撫でて立ち上がる。
寝室のクローゼットを開けて、鍵のかかった箱の中から書類一式を取り出す。
「ママ? それなぁに?」
いつの間にかついてきていた娘を抱き締める。
「ママね、無くした物を取り返そうと思うの」
「あたしも行く!」
「·····ママと一緒に行く?」
「うん!」
「·····そっか」
まだ間に合う。
手遅れになる前に、失われた時間を取り戻そう。
END
「失われた時間」