『問題集の表紙に書かれている注意事項をよく読んでください。解答用紙を汚損した場合は…』
男性試験官の張り上げる声を聞きながら「焦るな」と自分に言い聞かせた。試験開始まで、あと10分程度。
参考書を取り上げられて、試験開始の合図をただじっと待つだけの、この時間がとても苦手だ。
試験官の説明が終わると、試験会場はしんと静まり返る。これほどの人間がいるのに、物音1つしない。人の存在感だけが部屋を埋め尽くしている。
やがて、試験開始まで残り5分を切った。改めて心を落ち着けようと、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
瞼を閉じれば、暗闇。
そして、静寂。やがて、光。
「さあ、イタコ様に持っていかないと」
それを載せたお盆を手にして、私は曲がりくねった廊下を右に左にと進んでいく。周囲は黄色い壁に囲まれていて、外の様子は分からない。まるで巨大な迷路だ。
白い着物に赤い袴の裾を揺らしながら、ふらふらと歩いていると目の前に扉が現れた。そっと開けば、イタコ様が部屋の真ん中に寝転がっている。
「イタコ様、お持ちしました」
イタコ様の前にまで近づくと、お盆を机の上に置いた。イタコ様は何も言わず、頷くだけだ。だが、不意に起き上がると、にこりと笑ってみせた。
イタコ様の笑顔は、まるで10年来の悪友に対して笑いかけるようなイタズラっぽさがあって、親しみを感じさせる。
「それじゃあ、行きますね」
イタコ様は、ぷらぷらと手を振ってまたゴロリと横になった。イタコ様の後ろにある障子戸を開けて、部屋の外へ出る。後ろ手に戸を閉めて、廊下を進めばそこは台所。
もうイタコ様に会うことは叶わない。イタコ様に繋がる道は永遠に失われてしまったから。振り返っても、来た道は存在しないのだ。
私はお盆にそれを載せると、台所に置かれた冷蔵庫を開けて、その中を見た。
『始めてください!』
試験官の野太い声が鳴り響いた。その瞬間、紙を捲る音が津波のように押し寄せる。ハッとして自分も目の前のペンに手を伸ばした。
問題集に目を通しながら、自分が寝ていたことをようやく自覚する。夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
それは所詮、真昼の夢。意味のない荒唐無稽な夢。
解答用紙にペンを走らせながら、私は頭の片隅に誰かのイタズラっぽい笑顔を見た気がした。
夏は白が美しくなる
アスファルトの白線
道行く何台もの白い車
白い雲に白い壁
白い鳩
トマトソースパスタの白いお皿
真っ青な空の下
灼熱の光を照り返す純白の
なんと美しく怖ろしいことだろう
白に呑み込まれる
ここしばらく、
私の手にはいつも小さな愛が握られていた。
それは、放っておけばあっという間に
なくなってしまうような
本当に本当に小さな愛。
だが、私にはその小さな愛が必要なのだ。
愛は、とても冷たい。
愛というものが、温かで優しく幸せなものだと誰が決めたのだろう。それはまやかしだ。
愛は冷徹で、堅固で、そして時に耐え難いほどの痛みを与える。私は身を切るような痛みに、幾度となく口を押さえて泣く羽目になる。
それでも、私は今日も愛を求める。もはや愛なしで行きてゆく術を私は忘れてしまった。
愛は、とても脆い。
崩れて消えてしまわぬように、時を止めた箱の中で、じっと身を潜めている。誰にも見つからぬように。
だが、愛を狙う者のなんと多いことか。愛はいつも争いの種となり、恋人や友人、家族の絆さえも時に引き裂いてしまう。
そしていま、私は絶望の只中にいる。
愛が無い。愛が無いのだ。探し求めた愛が無いのだ!
箱の中、血眼になって掻き回しても
愛の一欠片も見当たらない。
この灼熱と化した地獄のような世界に、たった1つの愛も無く、私はどうすればいい。この世界の希望は、すべて失われてしまった…
ガチャ
「あずきバーとチョコのやつ買ってきたけど、どっちがいい?」
そのとき、救いの福音が鳴り響く。
手渡された愛は、水を滴らせ、いつもよりほんの少しだけ柔らかく、優しい愛だった。
真夏の午後。
愛すよ。私は君を愛すよ。