子供のように
面白いテーマですよね。
子供のようにとなると、次に続くのは素直とか無邪気とかでしょうか。
素直になれない大人達、タチ悪いイメージです。
素直になれないというと、ツンデレもそれに入るでしょうか?
そうなると、最近はツンデレな子もいるようですし、子供だから素直というわけでもないわけですね。
私自身は素直なほうだと思います。
素直だから思った余計なことまで言ってしまい、関係を拗らせるなんてこともよくあります。
これが子供のように、若いから子供だから知らないだろうししょうがないよね、で妥協してくれないのは悩ましいところです。
そういえば、先日とある子と話をした時、アンパンマンのキャラクターでナガネギマンというキャラがいまして。
そのキャラソン「ナガネギフラメンコ」があるのですが、それを小声でぶつぶつ歌っていたら、それ知ってる!と抱きつかれ一緒に歌うことになりました。
そのご機嫌な笑顔と人懐っこい態度。
子供のようにこうして無邪気に接してくれる人がいたらいいな。
私も子供のように無邪気に接したら……確実に捕まりますね笑
それでも、純粋な気持ちは忘れたくないものです。
皆さんも、子供のように我が子のように、同じ目線でいられる時は、擦れた高い目線を休憩して、ブランコや滑り台でも楽しんでみてはいかがでしょうか?
それか、子供のようにお小遣いねだってみるとか。
私も洗濯して干して畳んだら、誰かお駄賃くれませんかね?
放課後
放課後といえば全力下校。
油断していたらいじめっ子たちに囲まれてトイレ行きになりますから。
私の世代は基本和式便器なので、大体下駄箱に靴がない時は便器を見て回るのですが、溜まっている水の色が透明じゃない時は大変なんですよ。
数分水洗いしても臭いが落ちないずぶ濡れの靴を履いて、歩く度にグチュッグチュッと絞りきれない水を踏みしめながら帰るわけです。
小さい子が履くピコッピコッとなる靴みたいな愛らしい光景一切ありません。
いつも大変だったので頭を使い、帰り用に上履きの替えを隠しておいて、それを履いて帰るようになりました。
人間知恵をつけるものですね。
それはさておき、放課後という文字を書くと思い出すのは、最近よく見かける放課後デイサービス……ではなく、放課後電磁波クラブ。
よくあんなの地上波で流せてましたよね笑
でも、あの笑いが私の癒しと支えになっていたことは間違いありません。
あの頃の緩さというか寛容さというか、今みたいなピリピリした空気がない時代はよかったなと、しみじみ思ってしまいます。
今は何でもコンプライアンスですものね。
かく言う私も、こういう話を書くとコンプライアンス違反になってしまうのでしょうか?
そうなると困るんですよね。
できれば思うままに書いていたいので……意外と書く場所ってないと思いませんか?
どなたか適度に閲覧されるくらい且つ、読んでくれた感想とか聞ける場所があったらなんて、都合いいこと思ってしまう今日この頃です。
そう、放課後にいじめられてずぶ濡れになった靴のまま帰るとバレてしまうからと、少し歩いた図書館で靴と靴下を脱ぎ、少しでも乾かそうとしながら書いていた書き殴りノート。
あいついつも来ているなと館員に目をつけられ、危うく出禁になるところを助けてくれたとある人。
見返りに読ませろとノートを読んでもらいながら過ごすひととき。
いつしか放課後は、いじめから逃げる日々から、恩人との楽しい日々に変わっていき、あの出会いがあったからこそ、今も自分は生きていられるんだなと、放課後電磁波クラブの笑いとは別の救いがあったのでした。
カーテン
ちょうど昨日某100円均一ショップでカーテン生地を数枚買ってきて、ハンガーラックのカバーにするためにミシンで繋ぎ合わせていました。
今は何でもと言っていいほど100円均一にありますよね。
この前も顆粒のだしの素が湿気でやられないように、食品用の乾燥剤を買ってきましたが、園芸の支柱とかも長さ色々あったりして、重宝しています。
ところでカーテンといえば、遮光カーテンはかくれんぼで隠れる先あるあるな場所であろうと。
くるまってバレないようにしているのに、足元が隠しきれずにバレるやつです。
そしてレースのカーテンを見ると世代なのか、カーテンを背に両端を持ってマントのようにし、蝶が飛ぶようにヒラヒラとはためかせたくなります。
それはまさに、ジュディ・オングの魅せられて。
あのドレス?を広げながら歌う謎な呪文のような英語は今でも歌詞分かっていませんが、皆さんも一度は真似したくなったことでしょう。
個人的にはカーテンと聞くと、子供の頃の病室のカーテンを思い出します。
個室以外には必須なパーテーション用カーテン。
あれがあるからこそプライバシーが保たれます。
だけれども、当時の私はカーテンが開くのを楽しみにしていました。
それは誰もこない悲しさ。
周りはみんな面会時間となると、家族や友達がお見舞いに来ては談笑して帰っていきます。
誰も見舞いに来ることない私は、開くことのないカーテンに囲まれた中、周りの談笑を聞きながら耐えていました。
きっといつかはこのカーテンが開いて、自分にも談笑相手が来てくれるだろうと。
そんな日はこないまま、日々カーテンは看護師さんの用がある時だけ開き、ヘタすれば同室の子供達と顔を合わせたことなかった気がするくらい。
まぁ虐められなかっただけでもよしとしましょう。
涙の理由
涙脆いです。
感動しいなので、家族ものとかもダメですし、物語終盤の仲間集結みたいなのもう号泣です。
単純に欠伸でも出ますし、ヘタレなので痛みとかでも出てきます。
ほぼ一日一涙です。
その割に、痛み以外で自分が何かあった時は一切涙が出ません。
自分以外の誰かが何かあった時は号泣ものなのに。
自分用の涙腺はすっかり枯れたようです。
何か嫌なこと辛いこと悲しいことがあっても、そうなんだーの他人事で終わります。
そんな自分が枯れたと思えるほどに号泣したのは昔話。
なんと号泣で食欲もなくなり、2週間水だけ生活。
気づけば太っていた身体も痩せたと言われ、計ってみると20キロ痩せていました。
涙はダイエットになるのか……( ̄▽ ̄)ニヤリッ
ただの不摂生ですね。
それくらい自分の中では悲しかったんでしょう。
本当に涙って枯れると実感したくらい泣きましたから。
もう二度と経験したくない日々です。
でも今にして思うのは、そこまでいい出会いもしていたんだなと。
涙の理由。
理由はそれぞれとしても、流せているのは生きている証。
ならばたまには嬉し涙も流せるといいなと思う。
そんな秋の夜長です。
ココロオドル
たしか曲名でありましたね。
どんな曲かは浮かびませんが、最近の曲に入るんだったろうと。
そういえば、心躍ると胸躍る。
どちらも同じ意味に捉えていいそうですが、どちらも意外と体感する機会少ないと思うんです。
特に大人になって、新鮮味の薄れた社会に揉まれて擦れていくと、小さな躍動にも気づかないまま流していそうです。
そんなことを言いつつ、私はそうでもありません。
この年でぼっちでいますと、職場で見慣れた人との挨拶だけでも心躍り胸躍る気分になれます。
今日はやけに機嫌いいなー、今日は返事すらないから静かにしとこ。
同じ人でも日々違うんです。
そんな人達との交流で、どこに躍らない要素があるのか。
それがネットともなれば余計です。
目に見えない感じない素性の知れない相手と、一期一会の出会いをしていく訳ですから。
恋愛とは別の恋心でも起きるんじゃないかと思えるほどに、心躍らせて接します。
もしかしたら会話が続くかも、あわよくば仲良くなれるかも。
どうしよう、そのうち私の仲いい友達です!
とか紹介しても怒られないようになるかもしれない。
これが躍らずになにで躍らせるんですか!
踊る阿呆に見る阿呆って言いますしね。
……字が違いました。
相手は真顔でこちらばかり躍っていると、字ぐらい間違えるってもんですよ……たぶん。
ココロオドル
一緒に躍れる相手がいるって楽しそうじゃないですか。
そう思うと私と同世代以上は違うことが浮かびませんか?
Shall we dance?