形のないもの
いちばん大切なもの、と思うとき、それは形のないものであるのは誰しも同じ…だよね…?
形がないから、心で受け取って心に抱きしめて生きる力に加えてゆく。
誰かからの祝福、誰かからの思いやり、愛なる心の表現。
形に残るものも、形のない大切なものを想うよすがとしてある。
「媒介」はいろいろあるけれど、形のない、いちばん大切なものがたどり着くのは、いのちの中だ。形を表現しているいのちの、内なるところ。
届いてほしいといつも思っている、感謝と愛情と幸いの祈り。私にはいつも届いているから、尚更に。
大事にしたい
過ぎてゆくもの。ありありと記憶しているうちは「在る」もの。皆が忘れていっても、私が憶えていれば何処かに在り続けるならば。
今顕れるもの。昨日の自分の、選択の結果。学び、より希望に近付く明日を目指すために。
これから顕れるもの。そこまでの道程。命を手引きするもの。精いっぱい生きる意味が集約する、その場所への望み。
花畑
四角く区切られた地面いっぱいに咲く、白い花。
豊かの気配が風に乗る。波のような起伏がかたどる丘陵のはるかには遠く山の緑が見える。ここはいつも風が渡る丘で、空も大きい。
……ジャガイモ畑だ。
人間の暮らしに密接した花。このイモが食べられる季節にどうやって食べようかな、ふふふ。その頃は季節の変わり目だ。…さようなら、おいしかったものたち。こんにちは、おいしいものたち。収穫の恵みよありがとう。
さて、これはイモ畑の話だ。お題は花畑。
菊花のおひたし、バラのジャム…ダメだ、食べ物ばかり考える。お腹が空いているわけでもないのに。
空が泣く
泣いているかのような感じがすることも、確かにある。空には、何かしらの「響」があると思う。
晴れている空からぱらぱら降る雨粒が「狐の嫁入り」と呼ばれているのを聞いたことがある。私の住む街では「涙雨だ」と言われていた、特定条件下の雨もある。そういえば、東京行進曲という歌の中にも「涙雨」なんてあったな。
私はめったに泣かない。
悲しいさなかに泣かない。大抵、それがほどける段になって涙が出る。涙をこぼして泣くと心折れそうな危機感があって、泣くのは後まわしにしがちかもしれない。
自分のなかに怒りがくすぶるとき、雷雨に遭うと「気の合う友」に会ったような感じがする。
怒りの下には悲しみがある。
悲しみの下には痛みがある。
痛みの根っこには願いがある。
生きてる心から花が咲くように自然な願いが生まれる。
踏み潰されれば痛い。
痛いと悲しくなる。
悲しいと泣く。
続いたり、繰り返し潰されれば、“泣いても(心を表現しても)届かない”と諦めて願いを閉ざす。
悲しみは居座り続ける。痛みが癒えるまでは。
そして怒りが、痛みと悲しみに蓋をする。生きる方便と言わんばかりに。
自分に感じる「無力感」の悲しみに、怒りで蓋をする。
怒りの顕れはさまざまだ。
わかりやすく暴れる人も居れば、黙って漬物石みたいに引きこもる人も居る。集団でやれば暴動や戦争が顕れ、皆「心の蓋の模様」に気を取られてしまって、自分も皆も心が血を流してる事実を思い遣らない。
そりゃお天道さまだって泣くさ。
いたましくて、かなしくて、泣くぜ。
「夜明け前はいちばん暗い」と聞いたのは何十年前だったろう? 今の世を見る限りでは、暗さの中のネオンもたけなわ…といった印象だ。
先日の「不可解な体調不良でかなり消耗」した理由と必要について、なんとなく理解する出来事があった。事実に基づいたことを知って尚、自分がこの現実で進む覚悟と選択を改めて確認する機会があったのだ。このところヘタレていた私を心配した者の来訪を受けて対話した。
もの悲しくさえある区別の観を持ちながら、子らの平穏と幸いを願う、「創世の女神」と表現するのが近いだろうか。対話を終えて暫く考えたが、彼女と私の観は違う気がする。何が違うのか……?
「本流である現実があって、あなたはそこにも居る」
知っている。確かに私はそこにも在る。
「ここは本流じゃない。私が理に背いたからここもできた。だから罰が当たった…」
技術の知を与えた?
「そう。そして本流には無い苦しみが顕れた」
互いのつながりを閉ざし、恩寵に背を向けたことか?
「そう。ここは閉ざされている。ここが顕れたと同時にここの理ができて、違う現実にスライドしたことに皆気づかない。私の意識もその前がどうだったかわからない。皆本流にも居てここにも居る。夢、幻、やがて消えてしまう、夢のようなここ」
ここは可能性の深いところだ。ここでしか開かない可能性がある。
「あなたはこれからここに居るの?」
そうだね……“あちら”の私はリスクヘッジのために居てもらおう。“この私”はこのまま行く。
「本流のあなたの人生にこの状況は無い。本流では一緒に居る人もある。ここは……理を違えた牢獄のようなところ」
スライドを起こしたライン(流れ)は徐々に収束統合しつつある。蓋然性は全ての可能性へ向かうもの。
「それでいいの? そう決めるのね…」
………どうやら、彼女と私は出自が違うようだ(当然だし珍しくもない)。彼女の観には罪と罰があり、私の観にそれは無い。時間も空間も無いのが私のホームフィールドだ。罪と罰は同時に発生しうることになり、罰が先もあり得る。罪なき罰など無い。罪は区別の都合が定義する「判断」に過ぎず、ゆえに絶対の罪などというものも無い。「罪と罰を基にした悲しみと苦痛」という表現のインデックスではなく、同じその事象に私は「様々な姿で顕れる、チャレンジにして成長の資材」というインデックスを付ける。
彼女は言う、「流刑地で燃え尽きるのか」と。
私は思う、「燃やし尽くすほどに白熱して、もっと生命を引き出す。限りなく」と。
創世の女神はたしかに創世者だった。しかし、生きる一人一人と多くの種族もまた、自分自身の世界を瞬間瞬間すべて作る創世者なのだ。だからこそ、希望の兆す物事への認識集中が、集合意識を大きく助ける。
「私」がたくさん居ることは知っている。揺るがず愛する者はどの私も変わらない。