終わらせないで
『おはよん』
LINEトーク画面の一番上のアイコンに私はメッセージを飛ばした。
開いた本にクローバーの栞を置いたアイコン。クローバーの栞はいつだか、読書家の彼女に私が押し花にしてプレゼントしたものだ。
数分後、リズミカルな通知音と共にメッセージが画面に現れた。
『おはよ』
たった3文字のそれに、私は胸を撫で下ろす。
今日も生きてる。
『今日いい天気だねー!調子どう?』
『あんまり良くない』
『そっか、今日帰り寄ろうかなって思ってたんだけど』
『いいよ』
やり取りの後、彼女は『ごめん。来ていいよってことだよ』と追加した。
彼女の気遣いに頬が緩む。LINE上ではどうしても文字だけのやり取りになってしまうため、言葉のニュアンスが伝わりにくい。自分と相手で受け取り方に違いが出て、誤解を招いてしまうこと多々ある。彼女はそういうことに、とても気を配っていた。
『分かった!着いたら連絡するね』
既読を確認して、私は画面を閉じる。
制服姿の高校生たちが私の横を走って抜いていった。
スマホの時計は8時2分を示している。
あの制服は私の母校でもある。あと数分でチャイムが鳴るだろう。生活指導の先生は厳しいから、捕まると面倒だぞ。まだ変わってなければだけど。
と、少年のたちの背に呟いた。
ピコン。スマホに彼女からスタンプメッセージが届いた。
律儀なところは全然変わってない。
幼馴染の彼女とは、学生時代をずっと共に過ごしてきた仲だ。
昔から真面目で、優しくて、優等生のお手本のような子だった。
勉強も運動も交友関係も、なんでも良くこなす努力家だったけれど、いつも誰かの目に怯えているように感じた。
思春期の多感な時期、彼女の心は壊れた。
何がきっかけだったかは分からない。
ある日突然、彼女は学校に来なくなった。
クラスメイトも、学校の先生も、彼女の両親も、兄弟も、私も、誰も理由が分からないまま、彼女はひとり、夜のなかで閉じこもった。
不登校になってからも、彼女と連絡は取り続けていたけれど、
結局、出席日数が足らなくて、退学してしまった。
制服を脱いで数年経った今でも、彼女はまだ夜の中にいる。
講義を終えると、真っ直ぐに駅に向かう。
卒業後、私は家から通える距離の大学に進学した。進学を機に他県に出る人もいるけれど、やりたいこともなくて、将来のこともぼんやりしていたから、興味がある学部に進むという無難な道を選んだ。
彼女の近くに居たかったというのも理由にある。
一度だけ、彼女の口から死にたいと言われたことがあった。
友達同士で言う死にたいなんて軽口ではない。彼女の中の苦しみや辛さが深く滲んだ言葉で、心臓をギュッと掴まれたような感覚を覚えている。そのときの私はそんなにまで彼女が追い詰められていたことに驚いたし、なにより彼女の告白がショッキングで言葉が出なくて、顔を歪ませる彼女をただただ抱きしめてあげることしか出来なかった。
だから、私は大学の授業に心理学を取っている。
人の心の仕組みを理解したかったから。人間の心理を勉強すれば、彼女の心の傷みに少しでも寄り添えるかもしれないと思ったから。
あるとき、心を病める人の気持ちを否定しないようにと、何かで見聞きした。
死にたいの言葉によくそんなこと言わないでと返してしまいがち
だ。言われた方もびっくりして反射で言ってしまうこともあるが、
自分の気持ちを否定されたような気持ちになって、より悪い方へ行ってしまうこともあるそうだから、そう思ってるんだと肯定してあげてください、と。
あの出来事から彼女が本当に死んでしまうのではないかと不安になって私は毎朝彼女にLINEを飛ばし始めたのだ。
返ってくるかはその日の体調によるけれど、既読が着くだけでも、私のメッセージを見てくれる気力があることにほっとする。
あの時、迂闊に彼女に対して何も言わなくて良かったと振り返って息を吐く。
でも、勇気を出して言ったSOSを、私は受け止めてあげられたのだろうか。
彼女の家に向かう途中、駅中のコーヒー店に寄った。
お土産に新作のフラペチーノを2つ購入する。彼女が元気な頃、新作が出るたび通っていた。コーヒーがすごく好きなわけでもなかったけれど、ホイップクリームが乗った甘い飲み物が私たちのツボだった。
『来ったよー』
数分後も待たずに、ワンピース型のルームウェアを着た彼女が出てくる。
『やっほ』
『いらっしゃい』
『調子どう?』
『今はだいぶいいよ』
そう言う彼女の表情に笑みが見えた。
『お土産買ってきたから、一緒に飲もう』
『新作?もうそんな時か〜。ありがとう』
彼女の部屋は相変わらず床のあちこちに本の山が出来ていた。
一体何冊あるのか。
読書好きなのも、昔から変わっていない。
私はたまに彼女のところに来ては他愛のない話をする。
話しているときも、見た目も普通の人となんら変わりはない。
心を病むことを重く捉える人が多いけど、心も人間の身体の一部
だ。頭やお腹や足が痛くなるように、心にも痛みを感じる。体が風邪を引くように、今ちょっとだけ心が風邪を引いているだけ。
いつか治る。
でも、心は繊細だから。
何をきっかけにトリガーが外れるかは分からない。
彼女が不登校になった理由を私は未だに知らずにいる。
こんな風に会って、話して、笑っていてくれる彼女の傷みが。
フラペチーノを口に加える彼女の横顔を見た。
『ねぇ』
『ん?』
『今度さ、時間あるとき一緒に出かけない?』
彼女が伏し目がちで言った。
『…いいよ!どこに行く!?』
勢いよく出た私の声が裏返る。
彼女はそれがおかしかったのかケラケラ笑った。
外に出るの、勇気いるだろうに。
長い夜を彼女は今もひとりで歩いている。
死の衝動が彼女の中でも無くなってはいないだろう。
でもね、夜も明けるから。
貴方の人生、これからだよ。
だから
どうかまだ
命を終わらせないで
彼女の笑顔に、そう願わずはいられない。
落ちていく
落ちてゆく。
重力に身を任せ、流れるまま。
抵抗は何の意味もなく、物体は落下運動を続ける。
自然落下。
どこまで落ちてゆくのかなんて、この身が分かるはずもない。
地球の引力に、自然の流れのままに落ちてゆくだけだ。
堕ちてゆく。
どこにも光のない、闇のなかへと。
何もかもを染める黒。硝子の盾は壊され、心は闇に堕ちた。
色などない。ただ暗闇だけが広がる。
その暗闇が安心をもたらすこともあるだろう。
闇は深くて暗いが、深ければ深いほど、暗ければ暗いほど、そこから見える光の眩しさに気づける。
絶望の闇の中だからこそ、本当の光が見えるんだ。
堕ちてゆく。
どこにも光のない、闇のなかへと。
何もかもを染める黒に魅せられた心は闇に堕ちた。
色などない。ただ暗闇だけが広がる。
もう何も失うものなどない。
この身を蝕む傷みも、恐れも感じることはない。
絶望が私の内なる狂気を呼び覚ます。
絶望の闇のなかで、狂い堕ちてゆく。
さあ、ゲームの始まりだ。
夫婦
ずっと解けない謎がある。
世界のはじまり。宇宙の果て。人体の秘密。超常現象。
科学で解明できない不思議な現象や仕組みが、この世界にはいくつも存在している。
人間の感情もまた、その解けない謎に分類されるのではないだろうか。
夕食後のくつろぎタイム。
リビングにはテレビから聞こえる賑やかな音だけが響いていた。
飲み物片手にSNSを巡回していると、もう一人の演者の雑音が混ざる。
目だけそちらへ移すと、帰宅して早々炬燵に潜り込んでいた父がなにやらテレビに向かってぶつぶつ言っていた。
父が小さい頃、祖父(父のお父さん、私にとってお祖父ちゃん)が同じことをしていて、祖父に対してあれこれ文句を言っていたくせに、今、自分もやっている。
親に似るというのか、自分のことは棚にあげて、本当に口ばっかりだなと心の中で呟いた。
短気。いつも怒っている。自身の子どもより手のかかる大きな子ども。自己中心的、相手の気持ちを考えられないし思いやりない否定ばかりする、etc。
もう兎にも角にも、絶対にこうなりたくないと強く思わせる人が、悲しきかな私の父である。
独り言が終了したかと思うと、『なぁ?』と振り返って私に絡んでくる。
『そうだね』
この文句も私に聞かせるためにわざわざ言っていたのかと思うと、本当に性根が悪い。
本人はコミュニケーションの一環で話してるって言うけど、それにしても、もっと他の話題があるだろうに。絶対に娘との良好な会話内容ではない。
悪口ノリの絡み方なんて、今時の小学生でもしないよ、多分。
『ただいま〜』
『おかーえり』
両手に買い物カゴを引っ提げて母が帰還した。
休みの日にまとめて買い物に行ったのに、母はいつもどこかしらで何かしら買い物をしてくる。
真っ直ぐ家に帰りたくないらしいが、細々の出費はお金を使いたくない母のストレスになっている。悪循環だ。
母は仕事が終わっても家のことがある。
共働きなのに、かたや炬燵でぐうたら、かたや体に鞭打って家事。
昔ながらの亭主関白っぷりが、私が父を敬遠する理由でもある。
父と母。
夫婦。
二人が結婚した理由。
これが私の人生最大の謎といっても過言ではない。
結婚するというのは、どんな理由があるなせよ、この人とずっと一緒にいたい気持ちがあると思う。
もちろん好きって気持ちだけじゃ結婚は少し難しい。二人で生活していくのだ、自分の問題だけじゃなくなってくる。現実的に考えていく必要があるけれど、“結婚したい”の根底には“好き”という感情があるはずだ。
だから、父と母も、当時はお互いに“好き”の感情があったと思うのだけれど、にしてもだ。
娘の私から見ても、父みたいな性格の人と一緒になりたいなんて絶対思わない。
クソ野郎だ。
いいところを見つける方が難しい。
この人のどこがいいのか、全く分からない。
永遠の謎。
まずそもそも、私自身、人と付き合うことに疑問をもっている。
世の恋人たちを見て羨ましいと思わなくはないが、自分もそうなりたいかと問われれば、答えはノーだ。
好きな人もそれなりにいたから、好きになる気持ちは分かる。
でも、その先を求める感情の正体が分からなかった。
人間の感情は分からない。
同じ人間なのに。
自分のことすら分からないのに、他の人の気持ちなんて以ての外だ。
恋も分からない人が結婚も夫婦も語っても、どうしようもないだろう。
でもだからこそ、この気持ちを解りたい。
父と母は、無関心、無干渉、無感情的な、愛のあの字もあるのか分からない夫婦に見えるけれど、それもひとつの夫婦の在り方なのかもしれない。
こうあるはずだ、こうあるべきだ、なんて正解はないから。
人間の感情にも考えにも正解はない。
だから、私が今持っている考えも、気持ちも、それはそれで正しいと思いたい。
いつか、一生を添い遂げたいと思える相手に出会えたら、
ずっと一緒にいたいという気持ちが分かるのだろうか。
きっとその時が、ずっと解けない謎解きの答え合わせの瞬間だ。
どうすればいいの?
『どうすればいいの?』が口癖だった。
どっちにすればいいのか
どちらを選べばいいのか
どういう風にすればいいのか
ありとあらゆる出来事に対して、
他者の言動ばかり求めて
他者の言葉で決め続けて
鏡に映った私は、いつの間にか知らない誰かになっていた。
『ねぇ、私はどうしたいの?』
鏡の中の私が問いかける。
『…わたしは』
私は自分を取り戻せる。
私は自分で決められる。
私は自分を信じてる。
私は変われる。
鏡に映った私に呟く。
もう、知らない誰かはいない。
この瞳に映る世界は、私が決める。
宝物
辛くて、苦しくて、虚しくて、
何もかも嫌で、どうしようもない悲しみに泣いていた。
ただただ死にたがっていたあの日々も、気持ちも、
全部がかけがけのない、宝物だったんだと
いつか愛おしく思う日が来るのでしょうーーー。