題名『曇り』
「今日の都心は曇りになるでしょう」
スーツに着替えながら、テレビがそう言うのを小耳に挟む。
カーテンを開けると、空一面に灰色が立ち込めていた。
顰めた顔が鏡に映った。皺、増えたなぁ。
「降水確率は午前も午後も30%前後です」
「折り畳み傘を持ち歩くと良いでしょう」
曇りというより、曇りのち雨といったところだろうか。
面倒だなと思いつつ、カバンに折り畳み傘を放り込んだ。
「それでは次のニュースに移ります」
「昨夜未明、東京都〇〇区で強盗殺人事件が…」
うわ近所じゃん、物騒だなぁ。
昨日の夜パトカーがうるさかったのはそれか。
「警察は犯人の行方を追っています」
早く捕まえてくんないかな、普通に怖いし。
…ちょっとチャンネル変えよ、憂鬱な話題ばっかだ。
「リポーターの〇〇さん、お味はいかがでしょうか?」
「そうですね、やっぱりお出汁の味の広がりがすごくて…」
「…!」
私は思わず息を呑んだ。
レポーターの薄っぺらな感想が全く耳に入らなかった。
そこに映っていた店内は、店長は、料理は、
全て私の息子、陸翔のものであった。
気づけば私の頬には涙が伝っていた。
私は仕事のプレッシャーに押しつぶされ、子育てを疎かにした。
息子のことを褒めてやれなかった。
わけもなく厳しく叱る日もあった。
暴力を振るう日もあった。
なのに息子は、陸翔は。
「店主さん、この料理はどのようにして思いついたのですか?」
「そうですねぇ…」
「これは、幼い日に食べた母親の手料理の味を元にしています」
「だから、母親のおかげかもしれませんね」
本心かどうかはさておいて、
画面の向こうでそうやって笑っていた。
ごめんね、陸翔。
料理人の夢を馬鹿にしてごめんね。
ごめんね。ごめんね。
何度も心の内で謝った。
画面が切り替わり、テレビは星占いを始めた。
それと同時に、スマホが震えた。
『また母さんの手料理食べに行ってもいい?』
そんなメッセージが届いた。
『また食べにおいで』
気づいた頃にはそう送っていた。
ありがとう、の可愛らしい犬のスタンプが返ってくると共に、
「今日の一位はてんびん座のあなた!」
「今まですれ違っていた誰かと距離を縮めるチャンス。」
「ラッキーアイテムは、母親の手料理です」
都合よく、まるで私が作ったみたいな占いが流れた。
外の天気は曇り。多分、曇りのち雨。
てんびん座の私の心の中も、曇り。
だけど今、曇りのち晴れに予報が更新された。
題名『bye bye…』
「おはよう、遥花」
さっきのニュースで、桜が満開になったって言ってたよ。
今日は絶好の花見日和だよ。
次の休みに遥花の好きなスナック菓子でも持って行こうか。
ついでにコンビニでアイスコーヒーを買って行こう。
ガムシロップを二杯にミルクを一杯。
遥花のアイスコーヒーの黄金ブレンド、美味しいよね。
「食パン焼く?焼かない?」
あぁ、ごめん訊くまでもなかったよね。
バターだけ塗って焼いて、後からはちみつがお気に入りだよね。
それとも今日はジャムの気分?
お気に入りのブルーベリーのジャムも仕入れてるよ。
「コーヒー?紅茶?」
これも訊くまでもなかったか。
いつも通りホットコーヒー淹れておくね。
このペアのマグカップ、いつ見ても可愛いよね。
俺が緑にクマのマーク、遥花が青にペンギンのマーク。
青の方にはガムシロップ二杯入れておくよ。
…あぁそうだね、ミルクも忘れないように入れておく。
「はい、遥花のための特製プレート、かんせーい」
バター先塗りはちみつ後がけのトーストに、
とろっと半熟の目玉焼き。
添え野菜はカラフルなプチトマトと塩ゆでブロッコリー、
デザートには昨日買った苺をつけてやった。
飲み物は遥花ブレンドのホットコーヒー。
「桜、こっからでも見えるかな?」
ベランダに出て辺りを見回してみる。
電車が走る川沿いに、ビルで隠れてはいるが桜並木が見えた。
「んー、あんまり綺麗には見えないか」
残念だな、遥花にも見てほしかったんだけど。
とりあえず、カーテンは開けて行くね。
遥花、桜大好きでしょ。
「はい、ちゃんと食べなよ」
写真立ての中で笑う遥花の前に、特製プレートを置いておく。
我ながら、美味しくできたと思うんだ。
「じゃあ、そろそろ電車乗り遅れちゃうから」
「行ってきます、仕事頑張ってくるね」
「…ばいばい」
ほんとは全部わかってるけど、
もう日課のようになってしまったこの会話をやめられずにいる。
やっぱりまだ認めたくないのだ。
遥花がもう二度と、おかえりを言ってくれないなんて。
いつものように、研究し尽くした遥花好みの朝食を作って、
遥花がおいしい、って笑うのを見たいんだ。
遥花がちゃんと食べないせいで、
さっき作ったこの朝食は俺の夕食になるんだけどさ。
冷め切ったコーヒーにはガムシロップが溜まっちゃうから、
混ぜなきゃとても飲めなくて、なんだか虚しくなる。
ねぇ遥花。
またおかえりって言ってよ。
この家は一人だと広すぎて、寂しいんだ。
「…いってきます、遥花」
もう一度、遥花にいってきますをした。
いってらっしゃい、って聞こえた気がしたような。