猫の肩付近に顔を埋めると、小さく鼓動が聞こえる。
トクトクと、人間よりやや早い小さな心臓の音。
哺乳類の心臓は一生に打つ回数が決まっているらしい。
こんなに早く脈を打っていると、猫がすぐいなくなってしまうような気がして怖くなる。
どうかもっとゆっくり、のんびりと生きてほしい。できれば50年くらい、僕と一緒に暮らしてほしい。
「胸の鼓動」
帰宅すると、同棲中の彼女が踊るようにリビングから現れた。
玄関で固まっている俺の前でくるくると3回転し、バレリーナのようなお辞儀をする。
「……なんかあった?」
「よくぞ聞いてくださいました!」
そりゃあ聞くよ。じゃないとあとでいじけるでしょ。
「今夜のカレーは過去最高の出来です!すごいでしょ!?」
「おお……そっか、すごいね」
「でしょ!!うれしくて踊っちゃった」
早く手を洗ってきてね、と言い残し彼女はリビングへ戻っていった。
彼女はカレーに並々ならぬこだわりがある。何種類もスパイスを買い集め、日々理想のレシピを探求している。
そんな彼女があそこまで言うなんて、よほど美味しいカレーらしい。
奇妙な行動には面食らったが、俺もワクワクしてきた。
期待に胸を踊らせ、洗面所へ向かった。
「踊るように」
我が家の裏手にはお寺がある。
毎朝6時になると境内の鐘をついて近隣に時を告げている。
騒音というほどの音量ではないのに、鐘の音が鳴ると自然に眠りから覚めるようになった。
目覚まし時計やスマホのアラームに起こされるより穏やかに目覚めることができる。
今日はちょっと遅くまで寝てようかな、という日まで目が覚めてしまうが、そこから始まる二度寝もまたよし。鐘の音を聞きながら、ゆっくりと再び眠りにおちていく瞬間がとても好きだ。
「時を告げる」
「貝塚っていうのは、大昔の人が食べた貝の貝殻を捨てた場所なんだよ」
「え、なにそれ。ゴミ捨て場だったってこと?」
汚ねー、と弟はぼやいて足元の小石を蹴り飛ばした。小石は僕たちの目の前の柵に当たり軽い音をたてて跳ね返ってくる。
「こら、やめな」
僕の言葉を無視して不貞腐れたようにしゃがみこむ弟。せっかく付き合ってやってるっていうのに、なんだその態度は。
夏休みも残すところあと一日。だというのに僕の弟は自由研究にまったく手をつけていなかったらしい。
その事実を知った母が朝から雷をおとしたが、本人はどこ吹く風、焦る様子は全くない。見かねた僕が自由研究の題材になるんじゃないかと、市内で最も大きな公園の隅にある貝塚に連れてきたのだ。
「ほら、写真撮れよ。あとはあそこの案内板に書いてあることを丸パクリすれば、それっぽくなるだろ」
我ながら適当すぎると思うが残り時間ではこれくらいが精一杯だろう。
未提出よりはよっぽどいいはずだ。
のろのろと立ち上がった弟が父から借りたデジカメを構える。
「なんで昔の人のゴミ捨て場なんかがすごいの?ただのゴミでしょ」
「その時代に生きていた人たちがどんな生活をしていたかが分かるんだよ。貝殻以外にも、石器や動物の骨なんかが見つかってるんだってさ」
「でもゴミはゴミじゃん」
やる気も興味もない。まあ、小学生に貝塚はちょっと渋すぎるか。
「今の時代のゴミ捨て場も一万年後には貴重な遺跡になってるかもよ」
「どうせ俺、生きてないし」
口を開けば文句しか言わないな、こいつ。
夏休み最終日を古代のゴミ捨て場で過ごす羽目になったのは自業自得だろうに。
「そうだ兄ちゃん、俺あと読書感想文と算数のドリルと絵日記が終わってない」
「……おまえ夏休み中なにしてたの」
さすがにそこまで面倒はみきれない。ため息をついて、この事実をいずれ知ることになる母の心配をすることにした。
「貝殻」
画面の向こうに一際輝く私の推しがいる。
彼よりも若く見た目が良い俳優はいくらでもいるのに、私はもう何年も彼から目が離せないでいる。
彼のとびきりの笑顔を見るとつられて私の口角は上がり、儚げな泣き顔を見ると胸が締めつけられてしまう。
どんな役にも成り切る彼はきらきら光る万華鏡のように姿を変える。
その一瞬のきらめきを見逃したくなくて、食い入るように見つめ続けていると、いつの間にか画面が見えにくくなってきた。ずいぶんと部屋が暗くなっている。
窓の外はとっぷりと日が落ちていた。もう6時間近く小さな画面に釘づけだったようだ。
椅子から立ち上がりぐーっと背筋を伸ばす。
なんだか現実感がない。彼が放ったきらめきが、画面を越えて私の周りに散らばっているのかもしれない。
そうだったらいいな。
ふわふわと浮足立ったまま、夕飯の支度を始めるためキッチンに向かった。
「きらめき」