1年前、
1年分、新しかった、若かった、知らなかった
1年前、
1年分、好きだった、知らなかった、ときめいていた
1年前、1年分、未来は続いていた
がらんとした何もない、六畳ほどの部屋。
白っぽくて、電気はない、窓から差し込む光だけ
時折風が入り、薄いカーテンを揺らす。
その部屋の真ん中に、ぽつりとひとり、手足を伸ばして寝転ぶ。
仰向けになれば白っぽい天井が見える。
好きな本を一冊。
ただそれだけを持ち、生きる。
他には何もなく、がらんとした部屋の床に、ぽつりとただ置く。
時折、風と一緒に入ってきた鳥の鳴き声が、私の前髪を揺らす。
女は、ぱたり、と本を閉じ、ただそれだけが書かれた白い本を、そうっと机の上に置いた。
そして部屋を見渡し、どう片付ければよいのか、と途方に暮れた。
庭先の紫陽花の葉をもいで
水たまりに浸けた人差し指で葉をなぞる
すぐに砂をかければ
文字が浮かび上がる
ぼんやりと
くっきりと
乾いてしまう前に
それとも
乾いて消えて
わからなくなるように
歩いたり立ち止まったり
あなたに渡した紫陽花の葉は
雨の中で泳いでいる
くっついていた砂も想いも流されて
跡形もなく流れていく
「あじさい」
好き
嫌い
この言葉がなくなったら
この感情を
どのように表したらいいのだろう
「好き嫌い」
「ここはどこだ?」
街を歩いていたはずの男は、突然わからなくなった。
急にわからなくなってしまった、という恐怖。
突然訪れた恐怖に、男はたじろいだ。
「冷静になろう」
鼻下の出てもいない汗を拭った。
鼻が、ぐにゃりぐにゃりと曲がった。
すると、鼻が喋った。
「おまかせください、私があなたを連れて行ってさしあげましょう」
「どこへ行くんだ?」
男は驚いたが、すぐに受け入れた。
どうせ何もわからないのだ。
これは自分の妄想なのかもしれない、それでも他に頼るものもない。
人の気配すらまるでないのだ。
「行きたい所でしたらどこへでも」
鼻は答えた。
何とも例えられないような声。
男でも女でも子供でも大人でもないような、別の生き物のようでもあり、生き物ではないような声。
別に知らなくても、知っていても、どちらでも良いような不思議な声。
男はこれ以上、頭を使いたくなかった。
やっぱり冷静になどなれるわけがない、男はそう思った。
「ここがどこなのか、わかる所へ行きたい」
すると、男の足が勝手に動いた。
そして、数歩歩いた所にある電柱の前で止まった。
「着きましたよ。どうぞよく見てください。ここの住所が書いてあるでしょう」
「…こういうことではないのだが……」
男は仕方なくそれを読んだ。
読めた。
でも意味がわからないのだ。
「これが住所というものか。住所とは何だ?」
わからないことが増えてしまった。
男は絶望した。
「あっ、読めましたね。読めるんですね」
思いがけない鼻の言葉に男は驚いた。
「どういうことだ? 俺はこれを読めていたのか? 読むって何だ?」
首をかしげた。
何もわからない、いや、わからないって、何、だ?
何、って、何、だ?
その時、初めて小鳥の声が聞こえた。
舞うような風が木の葉を揺らした。
ただ無機質に立っている、男の目から涙が流れた。
その涙は鼻をつたい、そうっと唇に触れ、顎を丸くなぞって地面に落ちた。
鼻も泣いていた。
唇も、顎も、男を造っている全てが泣いていた。
悲しかったのだ。
もう何もわからなくなっている男以外は。
腕がそうっと男を抱いた。
唇の端が微笑んだように上がった。
それは男の意志なのか、唇の気持ちなのかは、わからなかった。
「街」