「ここはどこだ?」
街を歩いていたはずの男は、突然わからなくなった。
急にわからなくなってしまった、という恐怖。
突然訪れた恐怖に、男はたじろいだ。
「冷静になろう」
鼻下の出てもいない汗を拭った。
鼻が、ぐにゃりぐにゃりと曲がった。
すると、鼻が喋った。
「おまかせください、私があなたを連れて行ってさしあげましょう」
「どこへ行くんだ?」
男は驚いたが、すぐに受け入れた。
どうせ何もわからないのだ。
これは自分の妄想なのかもしれない、それでも他に頼るものもない。
人の気配すらまるでないのだ。
「行きたい所でしたらどこへでも」
鼻は答えた。
何とも例えられないような声。
男でも女でも子供でも大人でもないような、別の生き物のようでもあり、生き物ではないような声。
別に知らなくても、知っていても、どちらでも良いような不思議な声。
男はこれ以上、頭を使いたくなかった。
やっぱり冷静になどなれるわけがない、男はそう思った。
「ここがどこなのか、わかる所へ行きたい」
すると、男の足が勝手に動いた。
そして、数歩歩いた所にある電柱の前で止まった。
「着きましたよ。どうぞよく見てください。ここの住所が書いてあるでしょう」
「…こういうことではないのだが……」
男は仕方なくそれを読んだ。
読めた。
でも意味がわからないのだ。
「これが住所というものか。住所とは何だ?」
わからないことが増えてしまった。
男は絶望した。
「あっ、読めましたね。読めるんですね」
思いがけない鼻の言葉に男は驚いた。
「どういうことだ? 俺はこれを読めていたのか? 読むって何だ?」
首をかしげた。
何もわからない、いや、わからないって、何、だ?
何、って、何、だ?
その時、初めて小鳥の声が聞こえた。
舞うような風が木の葉を揺らした。
ただ無機質に立っている、男の目から涙が流れた。
その涙は鼻をつたい、そうっと唇に触れ、顎を丸くなぞって地面に落ちた。
鼻も泣いていた。
唇も、顎も、男を造っている全てが泣いていた。
悲しかったのだ。
もう何もわからなくなっている男以外は。
腕がそうっと男を抱いた。
唇の端が微笑んだように上がった。
それは男の意志なのか、唇の気持ちなのかは、わからなかった。
「街」
6/12/2023, 12:45:12 AM