やりたいこと
"やらなきゃいけないことやってからやりたいことしなさい!"
小さい頃から何度この言葉を言われたのか、もう数えることもできはしない。
昔から私は自分の欲求に素直な子供であったように思う。
机に縛り付けられるような算数の計算や、本の中に囚われるような国語の授業よりも、近くの自然公園の竹林に寝転んだり、森林の中の木の幹に登っては空を眺めたりするのが大好きだった。
そんな私は宿題をほっぽり出して、よく山に向かっては大人が捨てていったものを見て回っていた。思えば私が今の趣味の小劇場に出会ったのも、山の中だった。
山の中に捨て置かれたエロ本よろしく遺されていた演劇のチケットに描かれた絵の奇妙な調子が堪らなかった。
だからと言って、その時実際に観にいくなどと言うことはなく、一人隠れてそのチケットを眺める生活が小、中と過ぎて行き、
(両親に聞こうにも、女性の裸体が描かれていたものだから…)
ある程度のお金と自由を手に入れた高校時代はもう歯止めが効かなかった。
ほとんど毎週末、下北沢の小劇場に通って演劇を鑑賞する日々。どんどんとのめり込み高校を卒業する頃には生活のほとんどを演劇が占めていて、大学も結局、演劇や表現系の道を選ぶより他になかった。
そんなろくでなしだから、自分が怖い。やりたいことを追い求めて仕舞えば、破滅してしまうかもしれない。幼少期に拾った一枚のチケットに捻じ曲げられた私の魂では世間一般でいう幸せな生活を手に入れることなどできはしない。
私の今を構成しているのは、演劇に、下町のストリップ劇場に、年に一度の見世物小屋だ。いつ、わたしはこの身を滅ぼしてしまうのだろう。それは明日かもしれないし、もしかしたらもうあと数分後なのかもしれない。
他の人より幾分か欲望に素直なわたしではこの破滅的な生活に歯止めをかけることができない。このままでは観ているだけでなく、自身までその世界に飛び込んでしまう。
わたしは普通の生活を捨てることが怖くてたまらないのに、
当たり前に持っているはずの幸せを手放してしまう危うさが、
私の背後をつけ回している。もう、くるぶしまでその影が絡み付いている。
やりたいことなんて見つけてはいけない。これ以上見つめてはいけない。それが悪魔でない保証などどこにもない。
やりたいことを追いかけているなんて誤解かもしれない。
本当に追いかけられていたのは私で、実はもう捕まっているのかもしれない。わたしは"やりたいこと"が怖くてたまらない。
朝日の温もり
アラームの2,000Hzの音が不快に鳴り響いて、昨日の夜のまま時を止めていた部屋を震わせる。
瞼を開けようとしたら失敗して、眉間に顔のパーツを集めるだけになってしまった。
-睫毛が凍って下睫毛と上睫毛が固まってしまったのかしら?
何度か目を開けようとしては失敗し、結局諦めて知らずに込めていた全身の力を抜く。
ゆっくりと息を吸って、細く、長く吐いていく。1日の英気を養うみたいに。たいせつに。
つん、と張り詰めた冬の空気。鼻から深く息を吸い込むと鼻の粘膜がぎゅうと引き攣る。英気と言うには乱暴すぎる刺激だ。
「さっぶい…かっぷすーぷ、飲みたいな。」
こうなって仕舞えば、食欲に抗えはしない。
目も開けられないまま、むくりと身体を起こして、伸びをする。
ばきばきと寒さで固まってしまった背骨の悲鳴が漏れる。
首まで回してようやく、目が開いた。
ここであくびをひとつ。
目頭の目脂を拭いて、髪を整えて、意味もなく部屋を見渡す。
部屋の角のアイビーが不満気にこちらを見つめている,
『私にも栄養よこしなさいよ。』とでも言いたげな様子だ。
仕方なく布団から出て、カーテンを開け放つ。
白薔薇のドライフラワーに、キャンドル、ルノワールの画集や、
オルゴール。私のお気に入りを集めた出窓のレースカーテンの隙間から差し込んだ朝の陽光が顔に当たって、私の一日の始まりを控えめに祝ってくれる。
さっきまで冷たく感じた空気が、今少し、朝日に暖められて温もりを帯びた気がした。
「今朝は贅沢野菜のミネストローネにしよう。」
岐路
お気に入りのベビードールを着て、バニラといちごの香りのルイボスティーを淹れ、お気に入りのボディークリームの匂いに包まれながらベットに身体を横たえる。
今日久々に会った紗奈、中学時代の旧友は立派な女性へと見事な変容を遂げていた。職場の上司の愚痴を漏らす彼女が自慢げに発した中古の言葉が忌々しい。
「私たちは私たちが選んだ人生を送ってるの。」
ーほんとうに?
果てしなくつづく道の途中、あるように見えた別れ道ですら、実際には限りなく透明度の高いアクリル板に仕切られた"見せかけ"なのではないのかしら?
ほんとうのところは私たちに意思などなくて、ただ、生まれるより先に設定された通り、仮初の選択を重ねて予定調和を繰り返すだけなのではないのかしら?
自分で自分の人生を選んでいるなんて思ってしまうなんて都合が悪い。人生の責任の所在が自身であると認めてしまうことになる。
ー気分が悪い。
そんな使い古された言葉を恥ずかしげもなく、さも自分の言葉のように口にする彼女自身も、自分を軸に生きていると錯覚しながら輝かせる彼女の瞳も、居酒屋の光に照らされた彼女の姿も、全部。
明かりを落とした部屋の中に彼女の目だけが爛爛と光る。
暗がりに浮かぶその瞳は酷く不気味だ。
希望や自信に輝く虹彩は、獲物を前に昂る獣のそれと遜色ない。
私と彼女は仲良しだった。二人して同じ本が好きで、同じお菓子が好きで、同じドラマが好きで、価値観の合う"ふたり"だった。
それがどうしてこうも変わってしまったのか。
そういう設定の人間同士として生まれたのか、はたまた、彼女のいう人生の選択を重ねたその先にある結果なのか。
私の知らない彼女の人生の中で、一体どこにそんな岐路があったのか、私は知ることができない。彼女の見つめた景色、感じた風、見聞きしてきたこと、その全てを私が問いただすことなんてできはしない。認められない。二人別れたあの日から、過ぎた時間はもう計り知れない。
やはり私は自分の人生を自分で選んだなんて思いたくはない。
私があの岐路に立った時、選択することが赦されたのなら、きっとあの日の"ふたり"は今、ここにもいたはずなのだから。