「ここがあの有名な病室なんですね」
この病室に入るためにはモノスゴイ確率の引きが必要と言われている。お金でどうこうなる話ではない。そこに入ることができた。ここならあと1年は生きながらえるに違いない。末期がんの私にとって今やたった1つの希望だった。少し元気が出てきた気がする。
「そうです。O.ヘンリが書いたノンフィクションのあの部屋ですよ。でもすみません、実は絵描きがパリにおりまして、この病院に絵心のあるものが一人もおりません。いやそれ以前に、窓の外をご覧なさい、葉はもう落ちているのです。冬の閑散期なのです。だから、少々お安く、倍率も低かったのですよ」
そうなのか。でもまあご利益ありそうだな。
窓ガラスを見てみると何度も書き直されたような葉っぱの跡がうっすら残っていた。
ある日、窓の外を見ていると枯れ木の向こうの病室に一人の少女が見えた。枯れ木は内庭にあり、ぐるりと回ってあちら側にも病室があるのだ。その少女は悲しそうに枯れ木を見ているようだ。この枯れ木では寂しすぎて元気も出ないだろう。よし、この窓に私が何か描いてやれ。葉っぱを描いて、もう一枚描いて、せっかくだから花も咲かせて日差しも描いてみた……。毎日毎日、そっとベッドから立ち上がり描き足していった。向かいの病室からこちらが見えるだろうか。少しは元気になっただろうか……。
ある朝、少女が窓辺に立ち、こちらを見ているように見えた。顔色もよくなっているように感じた。
そのとき、胸の奥で何かが静かに収まった。
そうか、俺は死ぬ側だったんだ。
三大欲望というのは、食欲、性欲、睡眠欲と言われているが、さて、四番目の欲望は何だろう? 仏教では「五欲」(食欲・睡眠欲・性欲+財欲・名誉欲)という考えがあったり、生理学的には食欲、睡眠欲、排泄欲とする考えもあるそうだ。四番目には財欲や名誉欲を繰り上げてもいいし、排泄欲を入れてもいい。昨今でいえばいいね欲は確かにあるな。
といったことを湯船でぼーっと考えていたけど、ここはやはり「入欲(浴)」かなと気づいた。
ユウレカ!
通勤電車でウトウトしていたら、ハッと気づくと降りる駅で、電車のドアが閉まる瞬間だった。ああ、降りる駅が去って行く。気づくのはなぜいつも閉まる瞬間なのだろう。まあいいや、休んじゃおうと思った。今日は会議もないし、やりかけの作業には余裕がある。これは休みなさいとの神の啓示だ。スマホからメッセージを送り会社に対して手続き終了。このまま電車に乗って行けるとこまで行ってみよう、遠くの街へ……。
そのまま、また眠ってしまった。そして、今度はドアが開く瞬間に気づいた。よし、降りよう。定期券の先の駅だ。ただし、それはたった二駅先の駅だった……。
休みまでとったのにここまでかよ!
思っていたより遠くはなかった。
会社にメッセージを送る。
「用事が済んだので午後から出社します」
しばらく画面を眺めてから、送信した。
これが現実逃避飴か、なになに、舐めるとあまりの美味さに現実逃避できるだってさ、どれどれ。
袋の中に入った緑色の飴をつまむと少し柔らかい感じで何か練って練って作ったような飴らしい。口に入れると純粋な甘みと塩気が口の中に広がり、初めての味がした。甘さの中にほのかなフレーバーを感じるがそれが何味かはよくわからない。そして口元から優しい香りが全身に広がる……。五感のすべてが飴に集中し、何も考えられなくなった。
これは美味い、確かに現実逃避飴だ。
しかし、効果は1分にも満たなかった。
君は今
今わの君ね
さようなら