鐘の音
始業五分前を知らせるチャイムの音が聞こえる。聞こえる、というのはどこか遠くで聞いているのであって、こんな地点で予鈴がなっているということはもう到底一限には間に合わないということであって、すなわち僕は今遅刻しているのだ。チャイムがなった時点でどれだけ急いでも遅刻には変わらないのだから、労力の無駄でしかない、と走る愚かな民を横目に歩を緩める。
「?……あれは?、」
校門の向こう側、土煙を立てて走る下民共の真ん中を、ポニーテールにまとめた長い黒髪を靡かせながら悠々と歩む少女が見える。
「ハッ!!僕としたことが、意識を失っていた!!」
恋に落ちる福音は、始業を知らせる鐘の音が立派にその役目を果たした、
つまらないことでも
つまらないものですが、なんて言って時間をかけて選んだ手土産を渡す度に、なんだか心がすり減って行くような気がした。
っていうのはやっぱり繊細で、最近流行りのHSPで、息を潜めて隠れてる社会不適合者で。
どうしようもない私が渡す手土産なんて、本当につまらないものなのかもしれない。
と、思いながら渡した誰かの笑顔が、張り付いた愛想笑いのように見えた。
最近はそれを「心ばかりですが」と言って渡すことが多いと聞いて、そうしてみる。
きっとこれは錯覚だけど、誰かの笑顔が心做しか輝いて見えたという、つまらない話だ。
目が覚めるまでに
枯れたアンスリウムに
水をあげなきゃ。
今まであげられなかった愛情を
溺れるまで注ぐ
目が覚めるまでの
しあわせなゆめ
病室
冷房の効いた病室の中で、蝉の鳴き声だけが夏の訪れを知らせてくれる。窓の外を眺めていると、静かに音を立ててドアが開いた。
「斎藤」
よ、と片手を上げて齋藤は室内に入ってくる。
「元気かって聞くのものおかしいな。あ、これ、お見舞いの花と、野球部のみんなからの寄せ書き」
「おー、すげ。あざす」
「それだけっすか?」
「あざーす。感謝してマース」
受け取った紙袋の中身を覗くと、一人一人の筆跡が学校での日々を想起させた。かつては自分もこれを書く側で、送られるようになるとは思ってもいなかった。
「てかさ、スタメン様がこんなところで油売ってていいの?」
「馬鹿野郎、俺が行かなくて誰が行くってんだよ。……で、足どー?」
「あー、まあ、ぼちぼち? 今年の夏には間に合いそうもないけど」
「そ。……俺らもう3年だけどな」
「だな。あーでもそう考えるとおれでよかったのかも、ベンチだし。いやベンチはどうでもいいとかそういうことじゃなくて。」
「やめろよ」
「甲子園決まったのに、足引っ張るようなこと、ぜってえしたくなかったから」
「やめろ」
「でもおれはさ、お前じゃなくて良かったと思うよ」
足の靭帯損傷。最後の夏もベンチになって、それでも足掻いたその結果のこれだ。蝉が長い人生の最後の7日間空を見ることが叶うように、自分に才能がないとわかっていても、いつか羽化すると信じて頑張ってきたのだ。
もし、お前がおれみたいに足怪我したら、漫画とか小説の主人公みたいにカッコついたのかもしれないけどさ、おれはそうはなれないから。
「おれ甲子園の土欲しくてさ、おれの分も取ってきてくんね」
「……結構時間長引くと思うけど、それでいい?」
「おう、なるべく時間かけてくれ」
そういうと、斎藤は病室を出ていった。おれがいつもベンチから見ていた背中だった。
その夏、おれは泣き崩れる齋藤の背中を、涼しい病室の中で画面越しに見ていた。薄暗い土の中で光を見ることなく死んでいく出来損ないの蝉のように、自分の中の何かがひっそりと死んでいくのを、おれは感じていた。
明日、もし晴れたら
明日もし晴れたら、
体育は外でドッチボールだ、
なんて思いながら天気予報を見る、
そんな幸せ。
雨はまだ止まない。