たかいこ

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3/22/2023, 3:01:47 PM

 バカみたい

 
 「バカみたい、また泣いてる」
 
 彼女が子供の時、一度だけキスをしてあげた男の子がいた。
 足が遅くて頭が悪くて貧乏な家の子で、いつもいじめられて泣いていた。ある時いじめられて怪我をしながらうずくまっているその男の子があまりに目に余ったので、彼女は涙で濡れるその頬にそっとキスをした。
 驚いて涙が止まった男の子の明るいブラウンの瞳を、彼女は綺麗だと思った。



 「ぼ、僕と付き合ってください!」

 跪いて小さな花束を震える手で差し出す男の瞳は子供の頃と変わらない明るいブラウンだ。緊張を漂わせるその瞳に見つめられて彼女はため息をついた。

 「バカみたい、アンタと付き合うわけないでしょ」

 そう言われてがっくりと肩を落とす男に背を向け、彼女は歩き出した。
 彼女は駆け出しのモデルであり、街の酒場で美声を披露する歌手であり、その美貌で何人もの男をパトロンに持つ娼婦だった。彼女は金と力のある男にしか振り返らない。それ故に金をかけて自分を磨くことも怠らない。金も力もない平凡な男の相手をしている暇はないのだ。

 彼女は満たされていて幸福だった。
 若く美しくスタイルも良い。彼女の為に金を出す男はいくらでも居た。特定の相手など必要ない、愛だの恋だのと時間を使うのはバカなことだと思っていた。
 戦争が始まるまでは。

 モデルの仕事は激減し、歌を披露していた酒場は休業となった。彼女を支援してくれた金のある男たちは国内から逃げていった。
 彼女が何年も努力してようやく作り上げた、金に恵まれ人に求められる生活は、たった数ヶ月の間に崩れ去っていた。
 彼女は貯金はほとんどしておらず、自らを美しく魅せるために収入の殆どを費やしていた為に国外に逃れる事もできず途方に暮れた。

 (バカみたい…私は結局何も持ってなかったんだ)

 自暴自棄になりかけていたある日、あの男はまた彼女に声をかけた。



 「あの、これが最後かもしれません…どうか受け取って下さい」

 手の中には以前よりも小さな花束があった。この混乱の中、よく手に入れたものだと彼女は初めて男に感心した。

 「…バカみたい、あなたのお母さんにあげたら?」

 小さな町だ。噂もすぐに耳に入る。一人息子であるこの男が出兵することになり悲しみのあまりに寝込んだという話も。
 彼女の言葉に小さな花束を持つ男の腕がだらりと落ちる。その哀れな姿に眉を寄せ、ため息をついて彼女は男の頬にキスをした。

 「帰ってきたら私の顔が隠れるくらい大きな花束を持ってきて、そしたら受け取ってあげる」

 男は耳まで赤くし、明るいブラウンの瞳を輝かせると満面の笑顔で大きく頷いたのだった。





 「僕と付き合ってください」
 「今さらこんなしわくちゃのおばあちゃんに」

 彼女の顔が隠れるほど大きな花束を差し出したのは、穏やかな瞳の老人だった。その瞳の色は子供の頃から変わらない、綺麗な明るいブラウンだ。
 老人は杖で体を支えながら、跪いて満面の笑顔を五十年連れ添った妻へ向けた。

 「俺たちの結婚記念日だからね」
 「…バカみたい」

 そう言いながら、彼女は笑顔で彼の頬にキスをした。

3/22/2023, 4:45:24 AM

二人ぼっち


 「あのさ、もしこのまま誰も見つけられなかったらさ…」

 彼はどこか遠くを見つめながらぽつりとつぶやいた。

 「ずっと二人ぼっちかな…」

 彼女もまた遠くの景色を見つめていた。
 二人が見覚えのない森の中で目覚めたのは十日前のことだった。お互いに面識はなかったが、年齢も同じで話もあったことからすぐに意気投合し、協力して他の人間を探した。
 森から抜け出し、見たこともない生物をやり過ごし、獣道を頼りに生い茂る草木を掻き分け、知らない果物を食べ、ただひたすらに歩いた。
 しかしどれほど探しても人も街も人工物も見当たらない。飛行機の一つも飛んでいないのである。

 「人類は滅亡したのかな」
 「私達知らない間に物凄く未来に…来たってこと?」

 聞きたくなかった言葉。言いたくなかった言葉。彼女の言葉が一瞬詰まる。不安に首を絞められて声が死んでしまいそうだった。

 「…南に行こう、少しづつ寒くなってる、少しでも南下すれば暖かいところに行けるかも」

 彼はぎこちなく笑った。彼女もぎこちなく笑った。

 数ヶ月後、二人は冬の只中にいた。
 木や石で武器を作り大型動物を倒し、その毛皮を剥いで鞣すと防寒具にした。
 草を編み、縄を作ってサンダルを作る。丈夫そうな蔦を見つけると編み上げて簡易な籠を作った。

 「私達ってさ、逞しいよね」
 「うん、俺たち凄いよな」

 二人は洞窟を見つけ、そこに居を構えた。これから冬がますます深くなれば移動はできない。春までの一時的な住居としては中々の物件だった。

 冬の星空を見ながら二人は長い時間を過ごし、次の冬が来ても二人はまだその洞窟にいた。彼と彼女は父と母になり、子供は健やかに育っていた。
 次の年もその次の年も、その洞窟で過ごすうちに二人はようやく他の人類を探すことを諦めた。

 「それに、もう二人ぼっちじゃないでしょ?」
 「うん、もう違うな」

 二人は子どもたちと手をつなぎ、言葉や文字、星や季節の巡りを語り、苗木から育てた果樹や、食べられる植物の栽培を成功させ、魚釣りや狩りの仕方を教え続けた。

 数十年後、彼も彼女も永く生き、大勢の家族に見守られながら幸せそうに息を引き取った。

 子供たちは、代々最初の祖先である二人のことを語り継いだ。あの二人は冬の星を眺めるのが好きだった。
 北の空を指し、ミライノホクトシチセイと呼んだ。今は形が違うけど、あと何万年もするとヒシャクみたいな形になるんだよ、と。二人はたまにお互いのことをふざけてアダムとイブと呼んでいたが、子孫たちがその意味を知るのは何万年も後の話である。