バカみたい
「バカみたい、また泣いてる」
彼女が子供の時、一度だけキスをしてあげた男の子がいた。
足が遅くて頭が悪くて貧乏な家の子で、いつもいじめられて泣いていた。ある時いじめられて怪我をしながらうずくまっているその男の子があまりに目に余ったので、彼女は涙で濡れるその頬にそっとキスをした。
驚いて涙が止まった男の子の明るいブラウンの瞳を、彼女は綺麗だと思った。
「ぼ、僕と付き合ってください!」
跪いて小さな花束を震える手で差し出す男の瞳は子供の頃と変わらない明るいブラウンだ。緊張を漂わせるその瞳に見つめられて彼女はため息をついた。
「バカみたい、アンタと付き合うわけないでしょ」
そう言われてがっくりと肩を落とす男に背を向け、彼女は歩き出した。
彼女は駆け出しのモデルであり、街の酒場で美声を披露する歌手であり、その美貌で何人もの男をパトロンに持つ娼婦だった。彼女は金と力のある男にしか振り返らない。それ故に金をかけて自分を磨くことも怠らない。金も力もない平凡な男の相手をしている暇はないのだ。
彼女は満たされていて幸福だった。
若く美しくスタイルも良い。彼女の為に金を出す男はいくらでも居た。特定の相手など必要ない、愛だの恋だのと時間を使うのはバカなことだと思っていた。
戦争が始まるまでは。
モデルの仕事は激減し、歌を披露していた酒場は休業となった。彼女を支援してくれた金のある男たちは国内から逃げていった。
彼女が何年も努力してようやく作り上げた、金に恵まれ人に求められる生活は、たった数ヶ月の間に崩れ去っていた。
彼女は貯金はほとんどしておらず、自らを美しく魅せるために収入の殆どを費やしていた為に国外に逃れる事もできず途方に暮れた。
(バカみたい…私は結局何も持ってなかったんだ)
自暴自棄になりかけていたある日、あの男はまた彼女に声をかけた。
「あの、これが最後かもしれません…どうか受け取って下さい」
手の中には以前よりも小さな花束があった。この混乱の中、よく手に入れたものだと彼女は初めて男に感心した。
「…バカみたい、あなたのお母さんにあげたら?」
小さな町だ。噂もすぐに耳に入る。一人息子であるこの男が出兵することになり悲しみのあまりに寝込んだという話も。
彼女の言葉に小さな花束を持つ男の腕がだらりと落ちる。その哀れな姿に眉を寄せ、ため息をついて彼女は男の頬にキスをした。
「帰ってきたら私の顔が隠れるくらい大きな花束を持ってきて、そしたら受け取ってあげる」
男は耳まで赤くし、明るいブラウンの瞳を輝かせると満面の笑顔で大きく頷いたのだった。
「僕と付き合ってください」
「今さらこんなしわくちゃのおばあちゃんに」
彼女の顔が隠れるほど大きな花束を差し出したのは、穏やかな瞳の老人だった。その瞳の色は子供の頃から変わらない、綺麗な明るいブラウンだ。
老人は杖で体を支えながら、跪いて満面の笑顔を五十年連れ添った妻へ向けた。
「俺たちの結婚記念日だからね」
「…バカみたい」
そう言いながら、彼女は笑顔で彼の頬にキスをした。
3/22/2023, 3:01:47 PM