あの人はあの夏を覚えているだろうか。
茹だるような暑さの中、僕は坂道を見上げて呆然と立っていた。煙のように立ち上がる陽炎と額から滴る汗、それから、息遣いすら鮮明に感じられるような距離。くらりと脳が揺れて、現実感がどんどんと乖離していった。
「…ふふ」
そんな僕に、あの人は上品に笑った。なんで、と動かした唇は情けなく震えている。けれどその言葉には拒絶の色は全くなかった。
代わりにあったのは大きな困惑と動揺、そして劣情。
いけないと思った。このままこの人に噛み付いてしまいたかった。いっそ哀れなくらいに蹂躙して、弄んでしまいたくなった。
心臓が内側から早鐘のように鼓動して、僕に冷静になれと勧告してくる。この人はあんまりにも毒だった。僕にとっての毒、この上なく魅力的な毒蝶だった。
「せんぱい」
「うん」
「なんで?」
もう一度なんでと問いかけた僕は、どんな顔をしていたんだろうか。
その人はよく手入れされた髪を耳にかけて、息を吐くように微かに笑った。長いまつ毛が僕の頬を掠めた気がしてまた、くらり。ぐらぐら、地面が揺れる。脳が揺れて目の前が、あつい。
「きみが可愛い顔をしてたから」
そしてその人は、自分にしたように僕の髪を耳にかけた。汗で頬に張り付いた髪を撫でられるのはひどい感覚で、体の奥が疼くように跳ねる。
後頭部までひとおもいに撫でられて、僕は耐えきれずその人に手を伸ばした。僕の長い髪が揺れる。2人分のスカートがばさり、はためたいて。その人の肩が笑うように震えて、その人の瞳が伏せられる。
あの人はあの夏を覚えているだろうか。
学校帰りに2人きり、僕と唇を重ねたあの夏を。
忘れられそうにまない、あの秘密の一瞬を。
6.6『誰にも言えない秘密』
「きみといると雨ばっかりだ」
僕は呟いた。雫に打ち付けられながら見上げた空は雨模様。薄暗く曇って太陽を遮る。太陽のようだった彼女を直視しない、そんな僕を笑っているみたいだった。
「初めてのデートも雨だった。次もその次も、ずーっと雨。梅雨でもないのに雨なんだ。気が滅入るよなぁ全く」
初デート、どれくらい前だっただろう。忘れちゃったなあ。それでも僕は彼女と出かけるのが好きだった。傘をさして歩くのが、びしょ濡れになって笑うのが、子供に戻れたみたいで嬉しかった。そんなことしたことなかったから。
嬉しかったなぁ。僕ときみが出かける時にはあんまりにも雨が降るものだから、そのうち家で会おうなんて言われるかと思ったものだ。僕は家が好きじゃない。少なくとも人様に見せられる家じゃない。
だから嬉しかったんだけど。
「…ああ、いや。天気なんてどうでもいいんだ。僕が本当に話したいのはそんなんじゃなくて」
どこで間違ったんだろう。
僕は雲がかった心をそのままに呟いた。ぼんやりしていて自分の気持ちがわからない。本当にこんなことあるんだなぁと思うその感覚すらも、どこか遠い場所で起きたことのようだ。
「ねえ、どう思う?」
彼女は答えない。
僕は彼女の手のひらに自分のそれを重ねた。冷たい手のひらだった。馴染んだ温度にほっと息をつく。僕の手の甲に雨が打ち付ける。
「ははは、僕が悪かったのかな?」
彼女は答えない。
ぼんやり、生気のない瞳が僕を見上げる。よく見る目だった。前に付き合っていた彼女もこうだった。
「僕はきみを愛してなんかなかったのか?」
彼女は答えない。
そんなの愛じゃない、そう叫ばれたことがあった。何番目の女の子だっけ。忘れちゃったなあ。きみと付き合っているのが楽しくて、忘れていた。
「きみはどう?」
彼女は答えない。
返ってくるのは無言だけ。ああ死んじゃったか。
僕はまた空を見上げた。彼女に散らばった鮮明な赤と黒い赤、赤赤赤、それから目を逸らして空を見上げる。この赤色をどうか洗い流してはくれないか。そんなことをぼんやり願って呟いた。僕は手のひらにナイフを握って笑っていた。
「きみといると雨ばっかりだ」
都合がよかったよ。
僕の匂いも気にならないもんな。
5.31 『天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、』
いつもなにかに追われていた。それはきっと誰もがそうで、みんなみんな、得体の知れないなにかに怯えて走っている。
私も走っていた。ただひたすらに、漠然とした恐怖に怯えてひた走る。
それってなんだろう。わからない。わからないけど怖い。怖くて仕方ない!向き合うことも正体に気づくことも怖くて怖くて、怖くて、
「だれかたすけて……」
どうか誰か私に救いをもたらして。この、終わらない道のりを、必死に走る私に。誰でもいいから、私の涙を拭ってよ。もう大丈夫って抱きしめて。
いつもなにかに追われていた。
きっと、なんて曖昧な言葉は使わない。
もう私は知っている。
みんな、この世界に生きるみんながなにかに怯えている。誰もが無意識に救いを求めていて、私もそうだ。
みんな救われたいと思っているなら、みんな、誰かを救う余裕なんてない。
たすけてくれる"だれか"なんて、いない。
「ならわたしが」
私が私を救わなきゃ。
そして私は駆け出した。今までよりもずっと力強く、必死に、執念にしがみついて。
いつもなにかに追われている。
それは苦しいけれど、でも、きっと自分を救うなにかになり得るのだと、信じたいと思った。