平穏な日常
平穏な日常は、いつか崩壊する、と誰かが言っていた。それはテレビの向こうのコメンテーターかもしれない。もしくはどこぞの小説家か、海外のアマチュア映画か、はたまた過去の自分自身かもしれない。
現実逃避
重く閉ざされた扉の向こうは、多分桃源郷なのだと思う。
彼は精巧な機械のパーツを睨みつけて、再度工具を持ち替える。少ししてパチンと音がすれば、それは作業がひと段落した合図だった。
漸く顔を上げた伊波は、まるでどこだって見えいないようだった。同時に、見たいもの全てを目にしているようでもあった。
この部屋は桃源郷であり、監獄であり、脱出用ダクトなのだろう。ここに足を踏み入れるのはいつだって彼だけだし、俺たちにそれが許されているのかも怪しい。
君は今
君は今、どんな顔をしているのだろう。綺麗な愛想笑いかもしれないし眉を歪めて悔しそうなのかもしれないと思う。他にも、泣いていたり悔しそうだったり、怒っていたりするのだろうか。俺は彼の感情を、数えるほどしか知らない。彼がどんな時に笑ってどんな時に泣き、どんなときに怒るのか。どんな時に、その感情を揺り動かすのか。
「そんなの、あってないようなものだろ」
小さな命
「どうしたもんかな……」
眼下にはころりと、黒い塊が落っこちていた。伸ばしかけた手はどうしようもなく、意味もなさげに後頭部に回された。人は困った時、本当に頭を抱えるらしい。
転がっているのは我らがメカニックだった。ソファーでもなければカーペットの上でもない、冷え込む玄関先のフローリングで、片足分だけ靴を放ったままで力尽きていた。寒いからか猫のように丸まって、床に頬を擦り付ける様にして眠りこけていた。
肝が冷えるなんてもんじゃない。小柳は文字通り血の気が引く感覚を無理矢理に押し込んで、慌てて伊波の息を確かめた。そんな心配を嘲笑うが如く、息も心拍もゆったりと、彼の深くて抗いようがなかったのであろう休息を物語っている。小柳はただ深く息を吐いて、彼の隣に腰を下ろす他なかった。ただ、拍子抜けしてしまって。
「いなみ、……おー、ぃ」
とんと肩を叩いても、耳元で囁いてみても、伊波は目を覚ます気配がない。こんな状況だってのにその寝顔は驚くほどに穏やかだ。まるで、そう——
「……ハムスター、な」
ぷぅぷぅとか、そんな効果音が聞こえてきそうだ。思わずそのアホ毛に手を伸ばして、ぴょこんと跳ねるそれを撫で付けていた。伊波の髪は少し硬めで、しかし指通りは滑らかだ。その黒は桁違いに艶やかで、なのに所々猫っ毛を思わせる。ハムスター、というよりは、どうだろうか。猫のような、気がするのだけど。
「ライ」
触れた頬がずっと暖かくて、思わず手を止めていた。そのまま意図もなく撫で付けて、それでその目元の痕に気がついた。それ程近くでゆっくりと見なければ気が付かないほど、小さく乾き切った涙の跡。なんとなく、そう思った。欠伸の跡かもしれないとか、目薬かもとか、選択肢はきっとたくさん用意されていたのだろう。けれど小柳には、ほどんど確信に触れたと、そう思った。
いつからだろう。その背中が、紛れもないヒーローだと信じたのは。この手が、その背中を押せたら良いと願うようになったのは。
こんな小さな一人の人間が、この小さな命が、数えきれない人々の信仰を浴びて立っている。それがどれほど奇跡めいていて、どれほどの重圧なのか、小柳にはわからない。わからないけれど、それで終わりにしてやる気など毛頭ありゃしなかった。
「しゃーない、……よっ、と」
だから小柳は、抱えてやると決めている。伊波ライが倒れる時、支えてやると決めている。彼が膝をつく時、悔しさに天を仰ぐ時、彼がヒーローを辞める時。その全てを肯定してやると、そう、決めている。
小柳は伊波を軽く抱えて、そのままソファーに転がした。それから誰かしらが持ち込んだ大ぶりなブランケットを放り投げて、彼の対面に腰を下ろす。
自身と比べたら、本当に小さな命。目を逸らせない程に眩しくて、しかし見続けていたらきっと目を焼かれてしまうであろう、そんな閃光。一瞬のエンドロールに名を連ねたいが為に、小柳は側にいることに決めた。
それはもう、彼の瞳に焼かれたその瞬間から。
Love you
「愛なんていつも傲慢で、挑む価値もない」
そう吐き捨てた彼の顔は濡れていて、握り潰した愛の言葉は雨に流され黒く滲んでいた。
彼は誠実な男だ。愛に応え夢を語り、自身の苦痛なんて見せやしなかった。だから、涙だって見たことはない。大丈夫が口癖で、自身よりも他人にそう語る方が格好が付くと、酒を煽りながら笑っていた。彼の笑顔は記憶に新しい。真面目な顔して机に張り付いているのも、困ったように眉を下げるのも、小柳にはずっと褪せて見えた。
だから、拍子抜けしていた。伊波が顔を歪めているのも、その瞳が濡れているのも見慣れない。言葉は選べなかった。どれを選んでも間違いな気がしていた。握りしめられた拳が痛々しくて、小柳はそっと手を握ることしかできなかった。
「伊波」
静かに拳を撫でていた。伸びた爪が手のひらに食い込んでる。ピアスだって痛いのが嫌だと言っていたのに、こんなの、いい事なんてひとつだってありやしない。
「……ろう」
「帰ろ、ライ」
愛の言葉なんてクソ喰らえと思う。それは時に軽薄で重く、苦くて酸っぱくて甘ったるい、感謝の音を孕んだかと思えば、一瞬のして憎悪に転じる。
「そんなもの、信じなくていいよ」
靴先が雨を弾いて重くなる。道なんて見えなくて、握った手のひらは冷たかった。進む先だってきっと見えないのに、俺たちは明日も駆け出さなければならない。