心の旅路
「今年こそ雪降らないかな」
そう子どもじみたことを言えば、目の前にいる背の高い彼は苦い顔をした。何でそんな話の流れになったんだっけ。あ、そうだそうだ。居酒屋の小さなテレビに年末恒例のお笑いの賞レースが映ってて、音は聞こえないから雰囲気だけでなんとなく楽しんでたら、もう年の瀬だねという会話の流れになったんだっけ。
「雪で苦労してないからそうやって言えるんだよ。」
彼は生まれ育った北の地を思い出しているのか、遠い目をしてジョッキを口に運ぶ。陸路だけでは帰ることができない距離のせいで、あまり帰れていないと溢していたっけ。
「そもそもなんでこっちに来たの?」
都会と呼ばれるこの地の隅の方で育った自分には、他の県出身の人から見た魅力がよく分からない。交通の便は良いが、人で溢れかえっているし、治安が良いかと聞かれれば首を傾げるくらいには場所によって差が激しいし。それに、自分はそれが標準だったからあまりわからないけど、他の県から来た人がよく言う「良い意味でも悪い意味でも冷たい」っていうマイナスイメージだってあるのに。
「地元も大好きなんだけどね。ずっと憧れだったから。」
「ふーん…」
憧れ…憧れか。自分にしてみれば雪が降る方が嬉しいし、スキーだってしたいし、おいしい海鮮食べたいし。あー、旅行行きたい。
「なんの話してるん?」
トイレで離脱していた自分の横の席の奴が帰ってきた。どこにいたってこっちの標準語がうつることなく、地元の方言が強い彼は、北生まれの彼と同じお酒を注文した。
「なんで地元じゃなくてこっちに来たのかって話。」
あぁ、と納得したような声をあげて、残りが少なくなっていたジョッキを飲み干して彼は話し出す。
「確かに、なんも無いとわざわざ地元出ようってならへんよな。」
ここの人って冷たいやん?となぜか自分を見ながら言う。そんなに冷たくしている覚えは無いのだけれど。
「こっちはさ、なんも無くてもしょうもないLINE送りたいタイプやねん。最初の方は返してくれたけど、最近は素っ気ない返事ばっかりやしさ。せっかくの仕事終わりで家行きたい言うても8割はゆっくりしたいから言うて断るやん?ほんま寂しいわ。」
ここにはいない人のことを言うかのようにつらつらと愚痴をこぼし、枝豆を頬張っている彼の目には自分がうつっていないのだろうか。
「LINEは別にちゃんと見てるからいいじゃん。家は…そりゃごめんだけど。」
二人ともお互いのことを見ずに北の出身の彼のことを見ながら喋るから「おれを挟んで痴話喧嘩しないでよ!」なんて困ったように笑う。決して痴話でも喧嘩でもないのだけれど。言いたいことだけ言い合う自分たちを見兼ねて、仲裁役により話が逸らされた。
「というか、話戻すけど。そっちはなんでこっちに来たの?」
「俺?そりゃ仕事もあるけど、まぁ一番はこいつがおるからやな。」
何を馬鹿げたことを言っているのだと横を見ると、なぜか楽しそうに笑っていた。あぁ、絶対酔って調子の良いこと言ってるだけだ。彼からのしょうもないLINEの中に入っている耳触りと目触りだけ良い言葉。最初はそりゃ嬉しかったから返していたけど、あまりにも言われていたらその価値だって薄くなってしまう。それをこちらのせいにしないでほしい。
「何それ、惚気?やめてよー。恥ずかしい。」
わいわいと盛り上がる二人を差し置いてサラダを口に詰め込む。LINEなら良い。既読の文字には自分の顔がうつらないから。どんな顔をして彼の言葉を受け止めて良いのか分からない。歯痒い時間だけが過ぎ去り、割と早い時間にお開きとなったその会を終えて、地下鉄に走る彼を見送った。
「なぁ、今日うち行っていい?あの賞レース見よや」
うちというのは彼の家ではなく自分の家のこと。他人の家を「そっちの」とかいう枕詞なく「うち」とだけ表現することに付き合いたてはその意味がわからず困惑したこともあったな。
「自分のうちで見ればいいじゃん?てかこっち録画してないし」
「そっちので録画しといたで。やから見よ。」
そう飄々と言ってのけたから、そこまでして自分の家に来たいのかと思うとなんかもう笑っちゃって来訪を許可した。この流れで仕事を納めた後もなんだかんだこっちのうちに居着いてだらだらと年越しをするんだろうな。雪も降らない都心の冬は風が冷たいだけだ。それならば、いっそ。
「ねぇ、年始はさ、そっちの実家行こ。」
都心も、西の方にある彼の実家も、雪が降らないし、気候もそこまで変わらないなんて知っている。それでもなんとなく、忙しない毎日で忘れがちだった彼の故郷を知り、うざったらしくも愛おしいその存在をありがたがってやろうではないかと思ったのだ。いや、ただおいしいもの食べて旅行したい気分なだけなんだけど。だからさ、それ以上の他意は無いし、式の日取りとか早まらないでいいからね?
どこへ行こう
せっかくの休みだし、買い物でも行こう。去年は何を考えてこの服を着ていたのかと問いたくなるほどのセンスの無いワードローブに文句を言いながら出かける準備をする。おしゃれな服屋に行くなら、それ相応の格好してないと、話しかけられた時になんか気まずいし。どこへ行こう…そんなことを考えながら歯を磨いていた時、ふとLINEが鳴った。
「いまなにしてる?」
変換も惜しいほどの彼のせっかちさと、独特のイントネーションでその文字列を話す彼の姿を想像しては少し口元が緩む。
「服買いに行こうとしてた」
自分で打った文字を読み返して送信ボタンを押す…前に全て消した。全く違う文を打って、返信を待つ彼のイライラを抑えるために今度は早く送る。
「何もしてない」
嘘ではない。服を買いに行こうとしてただけで、今は何もしてない。緩みそうになる口元を抑えながら歯磨きも終えたのだから、今は本当に何もしてない。
「うちきて」
間髪入れずに送られてくる彼のメッセージは自分の暇を見越してのこと。そんなにいつもいつも暇じゃねぇよと思いつつ、彼のためになら暇になってなれてしまうのだから説得力が無いなと感じた。さっきまで着ていたよそ行きの服を脱ぎ捨てて彼のパーカーを羽織る。あーあ、本当にめんどくさい。だけど、どこへ行こうか考える手間が減ったと思えば良いのかもしれない。
君が見た夢
「そういえば、今日夢に出てきてん。」
細い腕には似つかない重そうなジョッキを煽った後に、なんでもないことのように溢した彼の一言が鼓膜を響かせる。こちらもなんでもないように、へぇーと返すが、声の震えは居酒屋の喧騒に紛れて補正されて聞こえてくれないだろうか。顔の赤さもアルコールのせいだと都合よく解釈してくれるとありがたい。最後の一本のつくねを断りもなく口に運び、気分良く彼は話を続ける。
「なんか知らんけど俺の家におって、そんで机に山盛りのチーズケーキがあって二人で食べきれんなーって笑ってて。」
少しでも彼の脳内に自分の存在が残っていたからそれだけで嬉しいと思っていたが、あまりにもその現実との差異に虚しさが募る。どれだけ酔っても必ず家にはあげてくれないくせに。自分の家ばかり寄って、朝には自分よりも早く起きて特に寛ぐこともなく帰ってしまうくせに。だから、期待してはいけないのだ。家にあげるのを許してくれる彼は、現実の彼ではない。チーズケーキが自分の一番の好物であるのも彼は知らないないだろう。居酒屋にはそんな洒落たメニューは無いし、家ではただ眠りにつくだけ。だから、彼がそのことを知るはずがないのだ。ふーんと興味なさげに声を出して自分のグラスを見つめていると自然と話は流れた。これで良かったのだろうか。何かこの関係を変えるきっかけにはならなかっただろうか。まだ彼といるのに一人でに反省会を始めようとするのは酔った自分の悪い癖だ。勝手に期待して、勝手に落ち込んで、勝手に悩んで、何をしたって変わらないのに。ふぅと大きくついた息は、また喧騒に紛れる。彼が見た夢の中にいる自分が素直になって、この気持ちを全て伝えてくれたら楽なのに。たまには居酒屋ではなくカフェに行きませんか。たまにはそっちの家に行っても良いですか。たまには自分のことをどう思っているのか教えてくれませんか。山盛りのチーズケーキを手土産に二人でアルコール無しで笑える関係にしてくれませんか。それを言って少しでも変な空気になってしまったら、酔った彼が変な夢だと勘違いしてくれれば良いのに。もしこれらのどれかを了承してくれるなら、眠れない自分も安心して彼の隣で目を瞑れるのに。そのどれもを伝えることもなく、今日が終わって日付が変わる。
明日への光
忙しなくて息苦しい日常での唯一の光は、年末の夜だけ。炬燵布団が嵩張るからと暖房がついたカーペットに買い換えようとするあの子に必死に言葉を並べて、今年もその処分を見送らせた。だって、あれが無ければソファに背中を預けてコタツに入ってテレビを見るという口実のもと、肘があたる距離感で何とも言えない会話を交わすだけのあの至福の時間がなくなってしまうではないか。0時を回った瞬間に盛り上がりを迎えるTVの音を遠くに聴きながら、ほとんど空になった缶を合わせておめでとうと言い合うだけのあの数分に、一年分の幸せが詰まっているのだ。これだけで直視したくはないタスクの溜まった明日も明後日も生きていけるって、全く知らないだろう。
あの子が引越ししたてに強引に取り付けた、年越しをここで過ごす約束。今年も何時に着くという確定事項だけメッセージで送りつけ、今年も拒否されなかったということに安堵してお土産の蕎麦と争奪戦寸前の新幹線の座席を予約する。大好きな恋人のように、久々の来訪を手放しで迎えてくれるような距離感ではないし、家族のように帰ってくるのが当たり前だという雰囲気だってない。手土産のちょっと良い蕎麦に少しだけ機嫌を良くして玄関を通してくれるだけの即時的なもの。来年も一緒に過ごしてくれるという確約が無いことに不安を覚えつつも、友人が板についてしまったせいで進めることができなくなったこの距離感を、それでも手放したくない大晦日の夜を、あの子はあと何年許してくれるのだろうか。
ベルト、ハンカチ、腕時計……置いて帰ってもうっかりで済みそうな、かつ勝手に捨てるには少し躊躇わせるような小物たち。定期的に忘れて帰るのがわざとだって気づいていないだろう。大晦日以外も自分の存在を思い出してほしくて、何度も訪れる理由にしたくて、でもそれを直接は言えなくて。いつまでこんなまわりくどいことをしてるのだろうと自分でも思う。だけど、自分専用だと信じたい来客用の布団に身を委ねて、真っ暗な部屋であの子のすやすやとした息を聞きながら眠りにつく何よりも愛おしい夜を手放す気はさらさら無い。
星になる
目を瞑ると、眩しかったあの頃のことを思い出す。とても綺麗で、愛おしくて、純粋だったあの頃は、もう戻らないからこそ尚更眩く輝く。現実を直視せずに浮かび上がってくる思考の断片は、あの時のことをいつでも鮮明に浮かび上がらせる。もう卒業して久しいのに授業中に寝ていて怒られる夢を見るだとか、一緒に帰った道の全く盛り上がらない面映い空気を頭に描くだとか、そういうの。もう何をしたって戻ってこない数々は自分の中で星となり、何がどうなるか分からない未来に足がすくんだ時の光となる。ただ、そんな星にずっと縋り付いてもいられない。鮮明に目に見えても掴むことはできないそれは、眩しすぎて長時間直視できないそれは、今を生きる自分にとっての足枷となることもあるのだから。星を望んで、囚われて、いつまでも執着ばかりしていれば、うっかり自分が星となってしまう。どうせいつしか星になるなら、まだもっともっとこれからの未来に星を増やしていけるかもしれない。そんな淡い期待を持って今日も目を閉じる。紛れもなく自分の星となったあの人の眩しい顔を想像しながら、そっと暗闇に意識を手放した。