jebel

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10/21/2024, 11:38:13 AM

夢の中で誰かを見ていた。
誰を見ていたのかはわからない。
走る車の後部座席から、道に佇む、どんどん小さくなる誰かを見ていた。
夢というのは不思議なもので、すっかり忘れていたような昔の事を掘り起こす事がある。
あれは田舎の祖父だ。
祖父に叱られ、その事でふて腐れた私は、帰り際も祖父の顔も見ずに車に乗った。
一年に一度二度しか会えない孫を、精一杯もてなし遊んでくれた。
山のようなごちそうを用意し、帰りには持ちきれないほどのお土産をくれた。
子供の私が喜ぶような、おもちゃもあった。
その時私の手にあったのも、そのお土産の一つだった。
子供だった私でも、そのおもちゃはそんな態度への罪の意識を抱かせるのに十分な祖父の愛だった。

私はそんな罪の意識から、後部座席から後ろを見た。
小さくなる祖父はいつものような笑顔ではなく、申し訳なさそうな、不安げな顔をしていたように思う。

私はそのまま前を向いた。
それは子供なりの意地と、それが祖父との最期の時になる事など考えもしない無知がそうさせた。

「おじいちゃん! 大好きだよ!」

窓を開けて大きな声で、何度も何度も叫べばよかった。 声が枯れるまで。

10/20/2024, 7:52:23 AM

すれ違い

都会で生活をしていると、一日に何人の人とすれ違うのだろう。
そもそも「すれ違う」とは何だろうか。
自分の前を横方向に通り過ぎた人を「すれ違った」とは言わない。
自分が動いていない時に、近くを通った人を「すれ違った」とも言わない。
つまり、移動している自分の横をだいたい百八十度違う方向、自分から見て後ろに他人が通り過ぎていく事を、我々は「すれ違う」と言う。

距離も大切だ。
百メートル離れた位置ですれ違っても、それを「すれ違う」とは言わないし、逆にゼロ距離ならば「ぶつかった」だ。
個人のパーソナルスペースや、その時の周囲の人口密度にもよるけれど、恐らく数メートル程度だろう。

ここまでではっきりしたのは、すれ違うとは「移動している自分の横数メートルを、後ろに通り抜けて行く」事であるようだ。

そんな事を考えて外に出た。
今日初めてすれ違うのは誰だろうという期待を胸に道を歩くと、正面から若い家族連れが歩いてきた。

ふとB'zの「愛のバクダン」の歌詞が頭を過ぎる。

"愛のバクダン もっとたくさんばらまいてくれ すれ違う人たちのポケットに"

幸せそうな彼らの愛のバクダンは、すれ違いざまに確実に、私のポケットに入った。

10/18/2024, 11:20:08 PM

秋晴れ

騒々しい暑さを抜けて風が心地いい季節になると、外を歩きたくなる。
空が高く清々しい。 色づき始める木々を眺めるのも楽しい。
秋は懐かしさを感じさせる季節だ。
もう話せない人達の事を考えたくなる。

たくさんの「ごめんなさい」を。
たくさんの「ありがとう」を。

この空に。