「これはここでいい?」
「うん、そこでいいよ、これで全部だから。
どうもありがとう」
新居のフローリングの床は古びていた。
ダンボールが置かれるたびに苦しそうに軋み、
女2人が歩けば、泣き声のような音が上がる。
「少し、狭いね」
「女1人で住むには十分だよ」
引越し作業はこれで終わり。
何か言いたそうな彼女から目を逸らし、
労いの紅茶でも淹れようとキッチンに立つと、
突然後ろから抱きつかれた。
懐かしい感覚に発作的に私の涙腺が緩む。
慌てて回された腕を振り解こうと思ったが、
その力は、今までにないほどに強かった。
「ちょっと、何…」
「ごめんね、ごめんなさい、ごめん。
あなたのことを、ひとりぼっちにさせて……」
今度はしっかりとした泣き声が響く。
気づけば私の頬にも涙が伝っていた。
「やめて、お願いだから泣かないで。
ずっと笑っていて。幸せでいて。」
そう言いながら、私は彼女の手を握った。
この人生で、触れることが許されるのは、
今日、この瞬間が、最後になる。
彼女の指は細く、長く、白く可憐で、
いつも良い香りがした。
甘くそそるような爪の形。
ずっと触っていたくなるような滑らかな肌。
その質感を味わう余所者の手を止めるように、
左手の薬指にゴツリとした感覚があり、
私はそっと、手を離した。
もう十分だ。
もう十分、幸せだった。
私の頭の中で、
反服される彼女の香り、笑顔、言葉、その声。
彼女が今までにくれた思い出と、
優しさだけで、
きっと、
この先、最後まで、生きてゆける気がしたのだ。
かつて女性は私にとって花だった。
蕾を見ると、どうにかして咲かせてやりたくなり、
花弁は無条件に愛でてやりたくなる。
花は、私の生きがい、そのものであった。
ー
ふと顔を上にむけると、
夜空に一筋、光が流れたのに気がついた。
「あっ」
隣にいた子どもが私の声に驚き、現地語で何かを呟く。
「驚かせてごめんね、星が燃えているんだよ」
私が安心させるように彼女の頬を包み、そう伝えると、
その娘の目は、
好奇心か、燃えるように光った。
正確には、燃えているのではなく、プラズマ発光している、と言うことを説明する前に、
その娘は私の手から離れて仲間のところに戻り、
夜空を指さしながら、その瞳をキラキラ輝かせていた。
あの娘は、この先どんな人生を辿るのだろうか、
あの娘にとっての、
人生の花は一体、何になるのだろうか。
手に僅かに残った温もりの余韻を感じながら、
もう一度夜空を見上げると、
ひとつ、ふたつ、線のように流れ星が空を彩っていく。
「どうか、健やかでありますように」
今度は誰も私の言葉を聞いたものはいなかった。
日本から遠く離れた異国の大地の上で、
夜の闇に溶けた日本語。
私は、今まで私の人生に
咲いてくれた色とりどりの花々に向けて祈ったのだ。
ー
あの娘が私の名前を呼ぶ、
空を指さしながら。
おそらく仲間たちに、
空に現れては消える、光の線がなんなのか、
説明して欲しいのだろう。
今夜は流星群のようだ。
いつもより明るく照らされた地面のおかげで、
草花を避けることができ、
私はステップを踏むように足取り軽やかにそちらに向かう。
「流れ星に願いを、花に祈りを」
私と出会ってくれた女性たちが、
今も笑っていますように。
そして、
どうか、あの人が、
今夜もよく眠れていますように。