この素朴な光がお前だ。俺に言わせれば素朴だ。ギラつきもしねえ、喧しい音だって鳴らねえ、せいぜいチカチカ瞬くくらいの光がお前だ。俺の隣で素朴に光る、柔らかいだけの愛がお前だ。
マグカップにインスタントコーヒーを入れて水を入れて牛乳を入れてチンする。温めすぎて膜が張ってしまいカップの淵がガビガビになっている。それを飲み干して、例えば私はそのカップを濯がずに水やお茶を入れだりできる。君はどう?と訊くと「ものによる」と返る。ものも何も、いま私はインスタントコーヒーでいれるカフェオレの話をしていたのだから、インスタントコーヒーでいれるカフェオレの話として答えて欲しかったのだが。「例えば私は君を飲み干してそのカップにまた君を注いだり君ではないものを注いだりして飲み干すことができる」そんな愚かな愛を私にささやく。
砕けるように出来ている。一方向にのみ強靭で、他はまるで脆いということになっている。
「方向」
「そう、ここに当たっても自分は砕けない、そういう部分を相手に向ける。心はほとんどすべて弱く脆い。大体の者は反射的に肉体が方向を整える。熟練の者はその反射に思考が宿る」
「あなたはいま私にそれを向けてる?」
「君がそう思いたいのならそう」
君がそう思いたいのならと言ったじゃないか。私は間違いなく望んだのに。あなたの欠片を拾いあげる。あんなにやわらかい声だったのに、ずいぶんと鋭利な欠片たちだ。噛まずに飲み込んで、喉を、食道を、胃を、この肉体を傷つけていくあなたをおもう。この身に取り込んでしまえば、肉体の反射も、思考も、方向だっていらない。私は無防備に、弱く、あなたのように今はただ脆くいることが出来る。
何でもないです、とあらかじめ言っておく。適度に疑わせる。それがコツだ。ゴミになるのはやりすぎだ。有用であることははなから望めない。役立たずであるなら役立たずなりの役に立ち方があると心得よ。枯れ木も山の賑わいというだろう。いいか、決して自嘲にも自虐にもはしってはいけないよ。そこがいちばんの難しさだ。役立たずをやりきる自分を軽んじてはいけない。取るに足らない君のとくべつを愛している。道化の涙をいっとうの宝物にする。この愛に殉じるには、その優しさに報いるには。
なかまと呼べるものとはどんなものかしら。どんなひとかしら。不具のからだとこころで考える。健康で他者に優しくて力強くて穏やかで怒りを適切に自ら引き受けた上で声をあげることができる、そういうひとが目の前にいたとして、まあこれはあなたと言い換えていいのだけど、そういうひとが目の前で私に手を差し伸べていたとして。私は怯まずにその手を取れるかといわれると自信がない。何の後ろめたさもなく、そういうひとを大切にして、大切にされることを許せるかというと自信がない。あなたは私を仲間と呼ぶ。健やかに、優しく、力強く、穏やかに。差し出されたその手を見つめている。いまこの瞬間、永遠のような時間が流れている。