天は二物を与えずというが、与える人には三物も四物も与えるし、逆に一物もくれないこともある。
禍福はあざなえる縄のごとしというが、人生の大半ついている人もいれば、全くついていない人もいる。
因果応報というが、悪いことをしてのうのうと生きている人はそこらじゅうにいるし、優しい人が報われない例も山ほどある。
人生はままならない。神様に祈っても通じるとは限らないことは重々承知している。
不安なことが続くと示唆が欲しくて、神様や精神世界など見えざるものを求めたくなるけれど、どうも自分は深遠なことを考えるのは苦手なようだ。
というわけで、神様へ言いたいことは特段ない。
ラッキーなことがあったらなんとなく感謝して、悪いことがあったらマジかーと溜め息をつく。
『神様へ』
今年は桜の開花が遅れて、自分が住んでいるところでは4月上旬に満開になった。遅れて、という表現は少し違うのかもしれない。近年は温暖化の影響で開花が早まっていて、かつてはこの時期が普通だった。
桜は先だっての風雨でだいぶ散ってしまった。
年度の終わりと初めはなんだかドタバタして、ドタバタが過ぎたら気が抜けてしまった。
ここに書くのも間があいた。
春眠暁を覚えずを地で行く日々を過ごしている。
最近は5月頃には暑くなってしまう。これまた温暖化のせいらしいが、夏が年々長くなっている。
今年は久しぶりに入学式の頃に桜が咲く春らしい春だったが、これが当たり前の景色でなくなったのはやはり寂しいことだ。
去りゆく短い春を惜しみつつ、今しばらくだらだらしていたい心持ちでいる。
『春爛漫』
リソースが足りない。
メモリが不足している。自分の。
最近は色々あって書く余裕を作り出せなかった。
自分がマルチタスクをこなせない人間ということはとっくの昔に分かっていた。
低速で生きることでごまかしているが、たまに忙しくなると露呈する。
複数のタスクを抱えるとフリーズするか、動作が極端に悪くなる。
OSを再インストールすることもメモリを増設することも不可なので、シングルタスクで地道に片付けていくしかないようだ。
『ないものねだり』
椅子(しかも自宅の)から転げ落ちて、腰と肩を打ってめっぽう痛い。
言い訳をすると丸椅子で背もたれもなく座面も小さいことから、適当に腰を下ろしたらバランスを崩したと思われる。
最近、花粉症にコロナにと踏んだり蹴ったりの日が続くが、椅子から落ちるのは自業自得で同情も買えず(むしろ失笑を買って)本当にバカみたいである。
『バカみたい』
起こったことより、起こりそうなことが怖い。
ホラー映画やスリラー映画でも何かが始まりそうな、出てきそうな雰囲気のとき最も怖く感じる。
登場人物がそこ行っちゃダメ、そこ開けちゃダメということをわざわざして、ついに“それ”が現れると緊張感が解けて怖さ半減、場合によってはこんなもんかと拍子抜けする。
髪を洗っている最中に、ふと鏡に“何か”が映っていたら…と想像して目を開けるのが怖くなった経験がある人は少なからずいると思う。
一瞬の想像に過ぎないのに、“何か”が本当にそこにいるかのような恐怖感にとらわれてしまう。
見えているものより、見えていないもののほうが想像は膨らみやすい。“何か”が背後にいたり、頭上にいたり足下から出てきたり……。
自分は怖がりだという自覚がある。
心霊的なものよりは人間や失敗のほうが怖い。
起こってもいないことが怖くて、行動しなかったことで機会を逃したことも多くある。
反対に危機を回避できたこともあるので怖がりも悪いことばかりではないのだが、やらなかった後悔のほうが記憶に残りやすい。
『怖がり』