高齢者が自動車につけるシルバーマークは、始まった当時「もみじマーク」という名で、デザインも今とは異なり文字どおり紅葉を模したものだった。
巷では枯葉マーク、落葉マークなどと呼ばれ、イメージがよろしくないということで現行のものに変えたらしい。個人的には名称はともかく見た目は若葉マークとの対比で分かりやすかったのだが……。
人生を葉っぱにたとえると、自分は今どのあたりの色づきだろうと考える。
毎日鏡に映る見慣れた顔でも、以前の身分証の写真と比べると確実に変わっている。
若葉や青葉の「成長」フェーズはとうに通過しているが、紅葉へと変化する「成熟」途中なのか、紅葉まっさかりなのか、既に枯葉へ向かっている可能性もある。
近年よく見かける、人に対する劣化という言い方はあまり好きではない。
紅葉は綺麗だし、枯葉には趣きがある。人もまた然り……と思いたい。
『枯葉』
・ほっともっとの弁当の片隅にいる緑色の漬物。
・ゆかりでお馴染みのメーカーの「瀬戸風味」というふりかけ。
・たい焼きのあんこがほぼ入っていない尻尾付近。
・ピーナッツなしの柿の種。柿の種とピーナッツの比率は7対3が多数派らしいけど10対0派。
自分の小さなお気に入りを並べて見ると、じゃないほうを好む傾向があるのかも。
でもアイスクリームの期間限定味はオリジナルの美味しさを再確認するためのものだと思っている。
『お気に入り』
まず生きていることが大前提として。
「これからが人生の正念場です。」
かな。既に萌芽は感じる。
乗り切れるか自分。
『10年後の私から届いた手紙』
最近とみに思うのは、当たり前だけれど、誰かにとって笑えることが誰かにとっては不愉快なこともあるということ。
お互い分かってやっている芸人のイジリなら出し物として笑えもするが、素人のイジリは見ていていやーな気持ちになるものが多い。
誰かを落として安易に笑いを取ろうとする。
愉快なサザエさんじゃあるまいし、みんなが心から笑えるわけではない。
……ちょっとトゲトゲしくなってしまった。きっと自分も誰かを傷つけてきたのだろうし、自戒を込めて。
『誰もがみんな』
優しさにひとつ気がつく ✕でなく○で必ず終わる日本語
俵万智がXで発表した短歌が話題になっている。最近よく耳にするマルハラについて詠んだものだ。
LINEなどのメッセージで文末に「。」(マル)をつけると、若者の一部は怒られているように感じるらしい。
句点で威圧感を与える、だからマルハラスメント。
若者ではないけれど、自分もたわいないメッセージなら句点はつけないことが多い。
しかしLINEでも真面目な話題や改まった相手だと句点はつけたい。「会話」から「文」へと空気が変わったらもうつけないと落ち着かない。文には必ずマルという固定観念がある。
「わかりました。」
「わかりました」
比べてみると、確かに上のほうが堅い印象はする。でも下だってそこまで柔らかい感じはしない。
ならば絵文字を加えたり、「わかりました〜」にすればいいのか?
どっこい絵文字や「〜」はおばさん構文なんだそうだ。知るか。
なんて斬り捨てずに一首つくる歌人の機知と温かさに敬服する。
『(ス)マ(イ)ル』