旅の人

Open App
7/6/2023, 1:23:39 AM

たまには寝転がって星空を見るのもいいものですよ、と教えてくれたのは彼女だった。
一国の姫である彼女がまさかそんな事をするはずはと思ったが、その瞬間にはもう彼女は楽しそうに草むらに寝転がっていた。
護衛騎士としての自分が以前には聞いた事のない一言や、見たことの無い表情をたくさん与えてもらっている。何もかもが新鮮だった。100年の時を超えてやっと自由を手に入れた彼女は、100年前より生き生きとしているように見えた。
「さあ、あなたも隣に」
そう言うが早いか、腕をぐいっと引かれ彼女の隣に倒れ込んだ。戸惑いながらも装備を解き、草の上に寝転がる。少し湿った草の匂いが鼻をくすぐった。夜の匂いだ、と思う。
横を見ると、彼女は真っ直ぐに空を見上げていた。その横顔がとても美しくて、はっと視線を奪われた。
今夜の星明かりはそんなに明るいわけではないのに、彼女の姿がはっきりと見えるのが我ながら不思議な気持ちだった。金のまつ毛に彩られた瞳が空を映している。美しくて、ただ美しくて、目がそらせない。こんな間近で、こんな角度で、主である彼女を見るのは100年前には有り得なかったことだ。
ふぅ、と彼女が感嘆したのを耳にして、我に返った。慌てて目線を夜空に移す。感情を表に出すのはあまり得意ではないのに、頬が火照っている気がする。彼女が気づいていないことを祈った。
「星空は、変わらないのですね」
ほっとしたような、寂しそうな。そんな口調で彼女は呟いた。
100年前とはたくさんのことが変わってしまった。失われた王国、周りの人々…彼女が厄災を押さえ込んでいてくれた100年という時間は、世界ががらりと様変わりするには当たり前過ぎる時間だった。
少し、申し訳なく思う。その100年間は残念ながら自分の記憶にはないからだ。傷ついた身体を癒し、再び厄災と相まみえる力を取り戻すために眠り続けた100年間。知らない間に盟友は去り、取り戻せたとはいえ一時は記憶さえ失った。
自分の知らない100年を越えてきた彼女の想いは、自分にはわからない。それがもどかしかった。
何も言えずに星空を見上げていると、声が少し近くなった。
「100年前も、あなたと星を見ましたね…変わらないものもあるのですね」
彼女の方を見ると、彼女もこちらを見ていた。さっきまで星空を映していた緑の双眸が、今度は真っ直ぐに自分を見ている。
「嬉しいです、またこうしてあなたと星を見られて」
そう続けた彼女の表情は、穏やかだった。静かに微笑んだその顔を、仄かな星明かりが照らしている。
「ありがとう、一緒に戦ってくれて」
そう言ってさらに笑みを深くする。わしづかみされたように、心がぎゅっと音を立てた。
もしかしたら、この笑顔が見たかったからなのかも知れない。護衛騎士だから、選ばれし英傑だから、剣の勇者だから、ではなく。100年前も、目が覚めてからも戦い続けてきたのは、ただ笑顔が見たかったから。
感情が膨らみ過ぎて、とてもいい言葉が見つかるとは思えなかった。伝えたい想いはたくさんあるけれど、言葉にできそうにない。
だから、ただ微笑むことにした。そして頷く。
それを見た彼女は、ふふっ、と嬉しそうに笑って星空に視線を戻した。100年前ならお互いに言えなかった言葉。伝えられなかった気持ち。変わらない星空を見ながらそれを伝え合うことができることを、何より幸せだと思う。
願わくばこの笑顔が消えないことを。こんな穏やかな時間をこれから先も守り続けていけることを、ただ星に願った。

3/10/2023, 4:40:37 PM

欲しくて欲しくてしかたがないのに

決してどちらも

手に入れることはできないもの

そして

それが欲しいがために

争いが尽きないもの


あいとへいわ

3/9/2023, 11:27:42 PM


一日一日、刻一刻と生命の時間は削れていく。
だからこそ一分一秒も大切にして行かなければならない。
そう言ったのは誰だっただろうか。

窓際に寝転んで、空を流れゆく雲を眺める。日当たりの良いリビングは、ただ横になっているだけでも眠気を誘うような心地よい暖かさに満ちていた。
このまま眠ってしまいたい、まとまらない頭でふと思う。眠ってひたすら眠って、今ある現実が全て夢で、何もかもが無かったことになってくれたら、どんなに楽だろうか。
視界を少しでもずらせば、散らかっていた様々なモノの代わりに置かれた段ボールが現実へと導く。逃げるように視線を逸らす。逃げて、無かったことになって、この暖かなリビングでずっと暮らしていけたなら。どんなに幸せなことだっただろう。

思えばこの部屋をそんなに気に入って選んだわけではなかった。条件に合って、なんとなくしっくり来る。ただそれだけだった。
内見などする時間もない。おそらく建設中に撮影されたものであろう、サイトに載っていた一年前の写真を頼りにこの部屋を借りた。
住めば都とはこのことだろうか。改めて思う。どこまでも居心地が良くて、暖かくて。賃貸だけれども、ここはまさに自分の居場所だった。住み続けるほど、大事な場所になっていった。
転勤族である以上、ある程度の覚悟はしなければならない。一年が当たり前のように過ぎていく訳ではなく、来年の春にはもういられないかもしれない、という覚悟を季節が過ぎる度にしてきたつもりだった。それでも荷物の整理をするという建設的なことをしなかったのは、どこかその覚悟から逃げ出したかったからなのかもしれない。荷物を整理してしまったら、ここでの春はもう来ないかもしれないから。

バサバサッと大きな音がして、積み上げた本が雪崩を起こす。その音でハッとして現実へと戻る。見たくもない段ボール。しまう荷物で散らかった部屋。生活に必要なものが散らかっていた部屋が、引越し荷物の散らかった部屋になる。
そうなってしまったらもう、ここは我が家ではないのだ。どんなに居心地が良くても、環境が許してくれない。逃げたい。逃げ出してこのままここでの生活を続けたい。なのに、現実が許してくれない。
己の事情でも意思でもなく行われる転勤は得てして多大なストレスをもたらす。言うことを聞きたくない身体を頭が無理矢理に納得させて、機械人形のように動かしている。
本当に、ノロノロと動きの鈍い身体は人形そのもののようだ。それでもなんとか起こして、荷造りを再開する。
一日一日、段ボールは増えていく。ここでの残りの人生をカウントダウンするように。生命が削れていくように。
最後のひとつを詰め終わった時、ここでの生活は終わりを告げる。心の中も、空っぽになる。荷出しをしたら残るのは、いつも空虚だ。心の置き場も、居場所もない私。新しい場所を探して、決められた場所へと旅に出る。空虚を連れて旅路を往く。

新居での荷解き。それが終わったら、少しはこの空虚な心も埋まっていることを祈ろう。大事な場所との思い出に囲まれて、私は新しい居場所を探していく。次の荷造りの時には、ここも居心地の良い我が家であるように。